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21 仕事に専念 ~工員引き連れて出向 苦闘した貴重な体験~

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 28歳でサッカー選手を引退したわけですが、周囲から「結婚はどうするのだ」と言われるようになりました。 

 当時、男性は29歳、女性は24歳までに結婚するのが当たり前といった見方もありましたので、世話をしてくれる人がいっぱいいました。そして、親類に頼んでお見合いをしました。

 相手は愛媛県今治市に住んでいました。週末には水中翼船で広島と松山を行き来し、松山城や道後温泉などに一緒に遊びにいきました。半年間のお付き合いの後、1970年に結婚しました。妻は24歳、私は29歳でした。

オイルショック
 広島市郊外の熊野に新居を構え、長男、長女と、2人の子どもにも恵まれました。熊野は有名な「熊野筆」の生産地でしたので、子どもの髪の毛で記念に筆を作ったことを思い出します。

 引退を考え始めたころから、経営に興味を持ち、部品担当として、ディーラーさんへ出張する際には、部品部長さんだけではなく、サービス部長や営業部長、社長さんにも積極的に話を聞き、勉強しました。

 間もなくして、東洋工業広島本社から名古屋支社へ転勤になりました。部品担当を務めていましたが、車両担当になり、新車の受注生産販売業務を行うようになりました。

 車両は車種や色、型式などが多く、間違えるとディーラーさんに迷惑を掛けてしまうので、管理には細心の注意を払わなくてはいけませんでした。

 順調に職務をこなしていたある日、自動車業界を揺るがす大きな出来事が起きたのです。

 オイルショックです。一気に自動車が売れなくなりました。そして、下った社命が、法人部長として、広島の工員さん10人を引き連れて静岡マツダへ1年間の出向でした。

 全員、私よりも年上の先輩工員に、商品知識や月賦販売の際の金利計算の仕方などを教えながら、トラックを主として、1人月1台の目標を掲げ、売りに歩いてもらいました。

 私は、10人が営業に出た後、取引先や法人に向かいました。自分で手作りのチラシを作り、前日にそこの社員さんに、私一人で配りました。その会社の敷地で、当日は仲間10人と昼休みに展示会を開かせていただき、必ず1台は成約してもらいました。

災い転じて福
 スーパーマーケットでも、広い駐車場の一角を借りて、展示会を開きました。ある日、古い自動車に乗って買い物に来たお客さまがいらっしゃいました。

 これは、間違いなく車を買い替えるに違いないと思い、スーパーから後をついていき、後日、自宅を訪問して成約にこぎつけたことがありました。

 悪戦苦闘しながら必ず月に1台を販売する目標を果たしていきました。厳しい環境の中での1年間でしたが、先輩工員の方々は「車を売ることの難しさを肌で感じ、ディーラーの皆さんの苦労が分かった。もっといい車を造ろうという気持ちになりました」と言ってくれました。畑違いの仕事で得た貴重な体験は、車造りの職人の心も変化させてくれました。

 まさに「災いを転じて福となす」になりました。
(2015年4月11日号掲載)

=写真=私(左)と妻、2人の子どもたち
 
丹羽洋介さん