
1979年、39歳の時に静岡マツダから、代表取締役専務としてマツダオート石川に出向しました。歴史と伝統のある街・金沢は、ある意味、敷居が高く、転勤してきた私のような若い企業人が、その雰囲気になじむまでには時間がかかりました。
しかし、かつて必死に取り組んでいたサッカーが助けてくれました。石川県サッカー協会が温かく迎えてくれたのです。当時、同協会長の渋谷亮治さん(渋谷工業社長・金沢経済同友会理事)と一緒にサッカーを楽しみ、同県高校サッカー選手権決勝のテレビ解説も、8年間務めさせてもらいました。県立金沢泉丘高校サッカー部のコーチをしていたので、同校の保護者からの応援もあり、少しずつ金沢の街に溶け込むことができました。
ハッチバックで開花
8年間、金沢に居を構えた中で、最初の6年間は営業に苦労しました。そんなに簡単には売れず、利益も出ませんでした。なかなか結果に結びつきませんでしたが、地道に努力していれば、必ず芽が出ると信じて、諦めませんでした。
石川県内の販売店を、一軒一軒漏れなく訪ねて、会社のPRと自分を知っていただく努力をし続けました。営業マンと共に出向き、時には営業部長と一緒に歩いて、企業や法人へ軽トラ、軽バンといった商用車を一生懸命、売り歩きました。
オイルショックの影響や、ブランド商品がないことなどから販売不振が続いていて、私が赴任する前から、会社を辞めたいと言っていた若い営業マン、サービスマンが多くいました。
しかし、日ごろの私の営業姿勢や経営方針を見て、少しずつ考えを変えてくれました。一緒に頑張ろうとか、会社が変わるかもしれないといった期待を持ってくれる人が増え、社員の雰囲気は明るく、前向きになっていきました。
そんな折です。ファミリアのハッチバックが新発売されたのは。初のハッチバックスタイルということで、市場に受け入れられ、爆発的に売れる大ヒット商品になりました。
長年の苦労が報われ、コツコツと積み上げてきたものが開花した感じで、うれしかったです。長い間手をつけられなかった店舗改装や社員の待遇の改善が順次進みました。若手の優れた人材の確保やサービスマンの技術向上にも目を向けられるようになりました。
会社のさらなるステップを考えている時に、近畿・大阪の管轄部長を命ぜられ、金沢を離れることとなりました。
忘れられない出会い
苦労した金沢時代で忘れられないのが、トラックディーラーの石川マツダ社長の林信男さんとの出会いです。全国でも広島に次ぐ高い販売シェアを誇り、メーカーにも信頼され、強い発言力がありました。会社の内容が良かったので、私も常に目標にし、いつか追いつきたいと思っていました。他社の優れているところを分析し、取り入れる手法「ベンチマーキング」を参考にさせてもらいました。
それまで「強力なリーダーの下では、特色のあるリーダーは育たない」と思っていました。林さんの会社ではどんどん若手が育ち、優れたリーダーが出ていることに、驚きと脅威を感じました。林さんの人間的な魅力、人を掌握し育てる力、先を読む力は抜群でした。
(2015年4月18日号掲載)
=写真=渋谷さん(表彰状を持った人の右横)ら私がお世話になった石川県サッカー協会のみなさん