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082 茂呂何丸 ~俳句の力で町おこしの期待~

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  茂呂何丸(もろなにまる)の句

  浅間から春の寒さも駕の窓
   (上洛紀行「花の手婦利」より)

  草萌る浅間の春に成にけり
   (句集「草花迺集」より)

       ◇

 190年ほど昔、信州と江戸を行き来する際、浅間山(2568メートル)のふもとを通ることが多かった。冒頭の1句は、風の冷たいころ、かごに乗って悠然と中山道を京の都へ旅しつつ吟じている。2句目は草木が芽吹く遅い春の訪れへの感動だ。

 時は移って平成の世の今、善光寺から東へ約3.5キロ、北しなの線北長野駅に程近い長野市吉田の辰巳池は、四季を通じて野鳥が憩う。春には近在の人たちの花見の名所でもある。

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 線路脇を歩き池のほとりに出ると、立て札が目に入った。「何丸枝垂桜」とある。没後180年を記念して植樹し、命名した。傍らに投句箱と投句用紙が備え付けられ、気軽な気持ちで詠んでください―と呼び掛けている。

 さらに〈春の夜や流れてあるく鴨の声〉。こう刻まれた句碑が、池と向かい合って立つ=写真下。これにとどまらない。長野市内では既に久しく「何丸」の商標で和菓子が売られている。「何丸」の銘を冠した日本酒もある。

 江戸後期の俳人で俳諧学者、茂呂何丸。小沢何丸とも称した。1761(宝暦11)年3月、水内郡吉田村、現在の長野市吉田北本町に生まれる。古書画を商いながら江戸、京都、大坂を往来し、32歳ごろから俳諧の世界に足を踏み入れた。

 自ら俳句を詠みつつ、江戸に移り住んで集めた大量の古書に基づく俳諧研究に力を注いだ。松尾芭蕉の七部集に詳細な注釈を加えた「七部集大鏡」全8冊は、18年の歳月を費やした労作である。

 これによって64歳の折、和歌道を取り仕切る京都の二条家から俳諧大宗匠の免許を受けることになる。そのお墨付きを受領するため上京した際の紀行文が「花の手婦利」だ。

 「花」は、華やかなことを意味する。「手婦利」は手振りに通じ、供として行く人、つまり従者のことだ。大変な栄誉にあずかり、人生の絶頂期にある我が身を象徴させている。

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 題名の通り、ぜいたくな道中だった。門弟や子息を伴い、窓付きのかごに乗って道々俳句をひねりながらである。たっぷり22日かけて京都に着いている。

 帰りは琵琶湖を船で渡り、北陸街道経由で高田へ。北国街道を上って善光寺。故郷に錦を飾る句会を催し、菅平を越える大笹街道沿いに草津や伊香保の温泉を楽しみながら、6月4日江戸に戻った。

 小林一茶と同じ時代に同じ俳句の道を生きた人だ。異なるのは後の世の評価である。今日の一茶人気に比べると、すっかり逆転して何丸の影が薄い。頑張れよ 何丸!

 〔二条家〕新古今集を編んだ歌人藤原定家を源に、歌壇は孫の代になって二条・京極・冷泉の3家に分かれた。二条家は後々、和歌から派生した連歌、俳諧でも重きを成していく。
(2015年4月18日号掲載)

=写真=春先の浅間山
 
愛と感動の信濃路詩紀行