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083 桃沢夢宅 ~地域に深く文運掘り起こし~

桜散り春はくれんとする程に咲きて匂へる深見草かな

吾妹子(わぎもこ)がかざしにとてや梅の花紅(くれない)深き色に咲くらん

                                  桃沢夢宅(ももさわむたく)


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 すぐにピンとくる人は、たぶん、そう多くあるまい。江戸時代の後期、京の都や信州を主な舞台に活躍し、後々まで影響を及ぼした歌人桃沢夢宅のことだ。

 まずは、その歌が宿している詩心を感じ取ってみよう。

 桜が散り、春は終わろうとするころに、代わって咲き出し、美しく照り映えるボタンの花だなあ...。

 初めの一首は、こんな意味になる。「深見草」は、ボタンの別の呼び名だ。桜は細やかにはかなく、ボタンは大きく豪華に、対照的な姿がくっきりと目に浮かぶ。

 後の一首は初春、初々しさの漂う紅梅の花が詠み込まれている。冒頭の「吾妹」は、男が妻や恋人など女性を慕わしく思って呼ぶ言葉だ。そこに愛称表現の「子」が加わっている。「かざし」は花や小枝を髪の飾りにさすこと。

 いとしいあの人の髪飾りにしてやりたいものだよ。今まさに梅の花が、紅色も鮮やかに咲いていることだ...。

 桜とボタンの歌、そして紅梅の歌それぞれが呼応するかのように、季節の表情と人の心模様を映し出す。

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 夢宅は1738(元文3)年、伊那郡本郷村(現上伊那郡飯島町)の名主役桃沢匡道の次男に生まれ、長兄の死去で家督を継ぐ。懸命に働いて先代が失った田畑を買い戻し、焼失した家を新築するほどの器量の持ち主だった。

 傍ら歌の道にも精進し、上京して平安朝以来の公家的伝統を守る歌詠みの僧・澄月(ちょうげつ)に師事する。やがて後継者になり名声を高めたが、帰郷して地元で後進の育成に力を入れた。

 この間、京都歌壇に新風を吹き込む鳥取出身の歌人、香川景樹(かげき)と交流を深め、その歌学に傾倒していく。一大勢力を築いた桂園派の和歌を信州に浸透させ、明治にかけて近代短歌が活気づく基盤を広げた功績は大きい。

 あらためて飯島町で夢宅の足跡を探し歩いた。江戸時代には幕府の直轄地であり、代官所のあった町の中心部には、夢宅と景樹の合同歌碑がある。

 町の南東、天竜川に向けて河岸段丘の突き出た本郷地区は、夢宅の出身地だ。立派な参道の西岸寺を訪ねると、ここにも夢宅の歌碑が立つ=写真。

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 加えて「伊那の三女」ゆかりの桜に出迎えられた。和歌を詠み「源氏物語」なども勉強する女性3人仲間。本郷村の桃沢かめ、河野きよ、隣村七久保の那須野さん。3人が花見に興じたと伝わる桜だ。何とその桃沢かめこそ、夢宅の母親であった。

 1730年代、山深い信州の片田舎で女性たちが、みやびな文芸の華を咲かせている。その素養の豊かさを知り、しばらくは興奮を抑えられなかった。

 〔桂園派〕香川景樹と門人による和歌の流派。桂園は景樹の雅号。古今集に基本を求め、平易を大切にするとともに流麗な調べに重きを置いた。明治になって正岡子規らの挑戦を受ける。
(2015年5月2日号掲載)

=写真=紅梅の花(かのよしこ)
 
愛と感動の信濃路詩紀行