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01 能を広める ~この道より我を生かす道はなし~

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 能楽は日本の伝統芸能の一つとしてユネスコ(国連教育科学文化機関)の文化遺産になって、格付けは大変向上したと思うんです。しかし、今は能を習う人が減った上にいろんな趣味があって若い人たちがなかなか能の世界に入ってこない。能にとっても大変な時代で、昔のようなバラ色の世界ではないですね。

 能楽の世界には私の流儀の宝生流をはじめ観世流、金春流、金剛流、喜多流の五つの流儀がありますが、大変さはどの流儀も同じだと思います。そういう危機感があるので私も微力ながら子どもたちに能のすばらしさを教えて、サケのように大海原に出てまた川に戻ってきてほしいと願っています。

 私は1942(昭和17)年に東京の目黒駅近くの今の港区白金で生まれました。ちょうど太平洋戦争中で、3歳の時に両親の出身地である長野の松代に6歳上の姉と共に疎開しました。幼少時はずっと長野で暮らして、寺尾小学校、松代中学校に通った後、高校進学を機に能楽師であった父親の作治郎の勧めがあり、十七世宗家、宝生九郎先生の所に入門し師事することになりました。東京の高校に通学しながら能楽堂に稽古を受けに行く毎日でした。

 そして59年に東京都文京区の水道橋能楽堂(現・宝生能楽堂)で、「橋弁慶」のツレ(弁慶の従者)の役で初舞台を踏みました。初シテ(主役)を演じたのは66年の「小鍛冶(こかじ)」で、81年に能楽師の登竜門といわれる「道成寺」のシテを務めました。アジアや欧州、北米南米などの海外公演にも参加しました。

 今ではシテ方の能楽師として東京や長野などで公演を続けていますが、特に長野とは縁が深いので、今後も一層長野各地で普及させたいと思っています。能を広めるため64年から同門会「淑宝会」を主宰しており、東京、長野(長野、上田、信濃町、荒井原、豊野、岡谷)のほか山口県(山陽小野田市、防府市)でも会員に指導しています。元気でできる限りは能の発展に少しでもお役に立てればと思っています。

 私は武者小路実篤の「この道より我を生かす道はなし、この道を行く」の言葉が好きで、私の人生はまさにこの言葉どおりでしたし、これからもこの言葉を大事に生きていきたいと思っています。
(聞き書き・船崎邦洋)
 (2015年5月30日号掲載)

中村孝太郎さんの主な歩み

1942(昭和17)東京都港区で生まれる
   44(19)長野県松代に疎開
   48(23)柴の寺尾小学校に入学
   54(29)寺尾中学校(3年時に合併し松代中学校に校名変更)に入学
   57(32)東京都杉並区の私立高千穂高校に入学
       神奈川県川崎市に下宿
   58(33)能楽師の父・中村作治郎の勧めで17世シテ方宝生流宗家・宝生九郎に入門
   59(34)東京都文京区の水道橋能楽堂(現・宝生能楽堂)で能「橋弁慶」のツレで初舞台
   64(39)能の幅広い発展を目指し自らが主宰する「淑宝会」を結成
   66(41)水道橋能楽堂で能「小鍛冶(こかじ)」の初シテ(主役)を演じる
   68(43)神奈川県座間市に移住
   73(48)高田桂子さんと結婚
   74(49)インド、タイなどへ海外初公演
   78(53)米国、ブラジル、アルゼンチンなど海外公演
  81(56)能楽師の登竜門である能「道成寺」のシテを演じる
   85(60)外務省の国際交流基金でフィンランド、デンマークなど北欧公演
   89(平成1)八千代薪能
   90(2)千葉県八千代市八千代台の自宅2階に式舞台(能の稽古場)を造る
   92(4)宝生流シテ方として重要無形文化財総合指定保持者に認定される
   96(8)上高井郡高山村の森林スポーツ公園で薪能「土蜘(つちぐも)」のシテを演じる
   98(10)上田城薪能
2006(18)松本市主催の国宝松本城薪能で能「通小町(かよいこまち)」のシテ深草少将(ふかくさのしょうしょう)の役を演じる
     7(19)上田市民会館で上田城跡能。能「綾鼓(あやつづみ)」のシテを演じる
       八千代市制40周年記念八千代蝋燭(ろうそく)能
  15(27)宝生能楽堂で「淑宝会春季大会」開く(毎年開催)

 
中村孝太郎さん