
私は太平洋戦争中の1942(昭和17)年11月20日、東京の港区白金で父・作治郞と母・けさの間に中村家の長男として生まれました。当時のことですから風呂はまだ銭湯の時代で、6歳上の姉・百合子は叔父さんに近くの銭湯へよく連れられて行ったそうです。
その時、父は能楽の流儀の一つである宝生流の能楽師をしていました。お弟子さんが多く朝から夜遅くまで稽古をして、体が持つかと母が心配していたと聞いています。お弟子さんが多かったのは父が勤めていた能楽書籍の出版社「わんや書店」(千代田区神田)の紹介があったからです。
牛車で引っ越し
長野からメリヤス工場に集団就職で上京した父は、その後わんやさんに勤めました。父が能楽の道に入ったのは、わんやさんの稽古場に謡曲の指導に来ていた能楽師の佐野巌先生の勧めがあったのがきっかけでした。2、3歳のころ、長野に家族で疎開したので、私自身の東京の思い出はほとんどありません。

疎開先の長野では、北信地方の柴(今の松代町)にあった母の実家の天野家に間借りしました。長野にも謡曲のお弟子さんが結構いて、困った時にはお弟子さんたちに助けられました。
しばらくして父は牧島に家を建てましたが、柴の家から牧島に引っ越した時に、幼い私だけが牛車に乗って行ったことを鮮明に覚えています。リヤカーに家財道具を積み、舗装されていないガタガタ道を、両親と姉が牛とリヤカーを引いて新しい家に引っ越しました。
48(昭和23)年に柴の寺尾小学校に入学しましたが、父はその後、単身で再び上京し、川崎辺りに下宿しました。牧島に残った母は2反歩ばかりの畑を借り、大根やホウレンソウなど日常生活が賄えるくらいのいろいろな野菜を作っていました。
いい野菜ができると、市場というか競りをする所へ売りに行きました。「あんなに苦労して作っても、これだけのお金にしかならない」と母がこぼしていたことを覚えています。ナスやキュウリなど山盛りにして値段は大体10円単位でした。神社のお祭りが楽しみで、そこでもらったあんこの付いた餅がごちそうでしたね。
川魚がタンパク源
自宅から小学校までは歩いて30分ほどでした。低学年の時は下校途中に石投げをしたり土手でツクシを採ったりして、本当に田舎育ちそのものでした。高学年になると、柴の金井池で小さなフナをたくさん釣って持ち帰り、母がすごく喜んでくれました。
その時の私のタンパク源といえば、肉よりも川魚でした。フナのほか、ハヤも甘露煮のように甘辛に煮ておいしく食べました。畑でできた小麦を粉にしてすいとんを作り、米に麦の混じった麦ご飯や身欠きにしんなども食べました。食料には困らなかったですね。
冬は金井池で鼻緒の付いた下駄(げた)でスケートをし、千曲川の土手で竹スキーをやりました。夏は千曲川でふんどしを着けて、クロールはできないので自己流の平泳ぎのような格好で泳ぎました。五右衛門風呂に入っていたのも懐かしい思い出です。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2015年6月6日号掲載)
=写真=寺尾小に入学した私と同級生ら(上)