
松代中学校に通っているころは、長野の高校に進学して将来は電気関係の仕事に就こうかなどと考えていました。しかし、中学卒業後、父の勧めで東京に行ったことが人生の大きな転機になりました。
1957(昭和32)年に東京都杉並区の私立高千穂高校に入学し、武蔵小杉(神奈川県川崎市)の叔父の家に下宿しました。叔父の家は製鉄会社の4階建て社宅の3階部分で、3LDKのうちの4畳半が私の部屋でした。
叔父は夫婦と小学生の子ども2人(いとこ)の4人家族で、私に一部屋をあてがうのは大変だったと思います。その上、私を家族の一員のようにかわいがって、朝夕の食事だけでなく、昼の弁当まで作ってくれました。
高校に通いながら
そこから井の頭線の永福町まで電車に乗って高千穂高校に通いました。翌年の2年生の9月に、十七世宝生流家元(宗家)の宝生九郎先生にお会いし、すぐに入門。その時は現在シテ方として活躍している4歳年下の小倉敏克君と一緒で、それぞれの父親に連れられて行きましたが、家元から「中村君は能を始めるには年齢が高過ぎるのではないか」と言われ、父が謝っていたのを覚えています。
能の世界では普通、入門する時の年齢は6歳6月6日と言われていました。何も知らないままこの世界に入ったため寂しく、怖い若宗家の宝生英雄(ふさお)先生の稽古ではせき払い一つで震え上がっていました。
高校の教頭だった杉本先生が能楽に理解があり、授業は午前中だけで済ませて、その後、総武線の電車で水道橋の能楽堂へ行き、能の稽古に励みました。若宗家だけの稽古では間に合わないので、父と大先輩の渡辺三郎先生の2人から下稽古を受けました。
授業と能の稽古を終えて帰宅し、下宿の部屋でその日に教わった曲のおさらいをしていると、観世流の謡曲を少しやっていた叔父がそれを聞いて「あれでモノになるのだろうか」と言ったことがあるそうです。ちょうど声変わりのころでもあり、謡曲がどういうものかもまだあまり知らず、ただ一生懸命やっていましたからね。
稽古の厳しさ、気の抜けない都会の雑踏、能楽堂での自分の居場所など、日々気を使っていました。当時下宿させていただいた叔父、叔母には大変よくしてもらっていましたが、私なりに気兼ねをしていました。
日本語の美しさ感じ
夜に部屋や風呂場などで謡っていると、「子どもが眠れないから謡わないで」と叔父に注意されました。朝、社宅の屋上で声を張り上げて謡っている時などは、社宅の住人から変な目で見られました。叔母も困っていたのではないかと思います。
能には室町時代からの言葉が使われていますが、日本語の美しさ、奥深さをつくづくと感じました。謡曲を習い始めたころ難しかったのは、言葉のメリハリと発声の吟、つまりバイブレーションの付け方、謡曲独特の抑揚のあるクレ節の謡い方、それに腹からどうやって一定した声を出すかということでした。また、宝生流の謡本は変体仮名で書かれていて、特に文の終わりに付く「候」は崩し字などが複数あり、大変読みづらかったですね。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2015年6月20日号掲載)
写真:叔父さん家族と私(左上)