
寺尾小学校に通っていたころは、母と姉と私の3人が牧島(松代町)で暮らし、父は毎月3週間を東京で、1週間を長野のお弟子さんに謡曲を教えるため、牧島で家族4人一緒に過ごすという繰り返しでした。
6年生のころだと思いますが、千曲川が大雨で増水し、土手まで水でいっぱいになったことがありました。まるで海のようでした。増水する直前まで母と2人で河川敷にあった畑でジャガイモを掘っていたところ、「ゴーッ」という水の音が聞こえました。
友人や先生たち
「音がして危ないから上がろうよ」と母に言って、掘ったジャガイモをリヤカーに積み、土手の上近くまで上ってきた時、既に水がくるぶし辺りまでやってきました。見る見るうちに水かさが増して、あと15分遅かったら、2人とも流されていたかもしれません。今思えば、本当に怖い経験でした。
当時の寺尾小学校の児童数は、1学年で約80人、松組と竹組の2クラスで、私は竹組でした。登下校は仲良しの阿部義一君といつも一緒でした。1年から3年までは、女性の宮本先生が担任で、好きな先生でしたね。その後、男性の成田先生になりましたが、宿題を忘れると「庭3周」と言われて、グラウンドを3周走らされました。
お2人とももう他界されましたが、宮本先生は私が上田や高山村などで能を演じた時、よく見に来て喜んでくれました。阿部君とは中学まで一緒で、東京と長野で別々に暮らすようになっても親しくしていました。しかし、阿部君も2年前に亡くなり、寂しい限りです。
1954(昭和29)年に寺尾中学校に進みましたが、3年生の時に、幾つもの学校が合併して松代中学校になりました。今は廃線になった長野電鉄河東(屋代)線の電車に一駅だけ乗って通学しました。
松代中学は1学年1クラス40人ほどで、12クラスありました。中学時代の思い出はあまりないですね。村から町に出ておじけづくことはなかったのですが、生徒数が多いと、やはり気の強い子が頭角を現すし...。得意科目も特になくて、母親を悩ませた方でしょう。
父が月に1週間、牧島の自宅に帰ってきたのですが、私は一度も謡曲を教わらなかったですね。2人のお弟子さんを自宅で教えているのを聞いたことがあります。2人とも柴の人だとは分かりましたが、中学生の私は謡曲について何も感じませんでした。
謡本の落書き
それで特にやりたいという気はなかったし、父も「謡曲をやりなさい」とはひと言も言いませんでした。
ずっと後になって、父が謡曲の教本である謡本(うたいぼん)のあちこちに赤鉛筆で線を描いた落書きを見せて「これはおまえが小さいころに書いたのだ」と話したことがあります。
宝生流の謡本は昔ながらの和紙に変体仮名の崩し字で書かれています。字の横には謡い方を表すゴマ節(ふし)やハリ節など、何種類もの記号が付いていて、大人でもなかなか読めません。能楽をたしなむ者にとっては魂のようなものです。その謡本への無意識の落書き。これが私と能楽との初めての出合いだったのでしょう。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2015年6月13日号掲載)
=写真=松代中学校時代の同級生たち(前列左が私)