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05 水道橋の能楽堂 ~稽古と蔵掃除が日課 若宗家から一対一で

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 午前中は学校、午後は能の稽古という東京での生活の中で、学校の夏休みと冬休みが待ち遠しかったですね。休みになると、松代の田舎に、当時は屋代で列車を乗り換えてたっぷり4時間かかりましたが、うきうきしてうれしく帰ったものです。金井山駅に降りると、麦畑や懐かしい山や川、小学校など、数々の田舎の風景が、私を笑顔にさせてくれました。

 母、姉、幼なじみの阿部義一君らと会い、東京の話をしました。母には「頑張れ」と励まされ、東京へ戻りました。松代を去るのがつらくて、泣いたことも覚えています。

 体が覚える
 東京・水道橋の能楽堂には午後2時から6時ごろまでいて、謡曲と仕舞の稽古をし、蔵掃除をするのが日課でした。

 入門したてのころ、能楽堂の中を見て回っていると、蔵の入り口があり、内部は薄暗くて、どういう所だろうかと、ものすごく興味がわきました。目を凝らして見ると、蔵の中で2、3人が仕事をしていました。

 日の光が入らない牢獄のような所で、先輩たちがゴソゴソと蔵掃除や能装束の繕いなどをしていたのです。「大変な所に入門したな」と驚きました。蔵の中には能の装束や能面など大事な物ばかり保管されていました。これらは戦時中、戦災に遭わないように箱根の方に運んだらしいのです。

 若宗家の稽古は能楽堂の舞台で、一対一で受けました。宝生流には180番(曲)の能がありますが、最初の稽古は謡曲が「橋弁慶」、仕舞が「熊野(ゆや)」のクセ(一番の見せどころ)の部分でした。

 今思えば稽古は厳しかったですね。若宗家は私が謡い終えても、なかなか「よし」と言ってくれませんでした。それでまた最初から謡い始める。力を入れて30分も謡うと、声が出なくなる。それを繰り返すうちに、いかにして声を出すか、自然と体が工夫して覚える。声が出なくなるから、力を抜いて体全体から声を出す。高い声はうんと細く、反対に低い声はぐっと絞り出すように...。それが分かったのです。若宗家はこれを分からせるために「よし」と言わなかったのですね。

 仕舞の稽古は白足袋に着物姿でした。右手に扇を持って中腰になり、すり足で若宗家の謡の声に合わせて舞いました。姿勢が悪かったり体がふらついたりすると、「腰が入っていない」と注意され、後ろから蹴られたこともありました。

父にも教えてもらう
 最初は無我夢中で、稽古がつらいとは思いませんでした。練馬区の渡辺三郎先生の自宅へ出向いて、稽古の前の下稽古をし、おさらいをして、謡曲も仕舞もどうにかできるようになってから若宗家に直接稽古をしていただきました。行き詰まった時は、休みの日に川崎市の大島町にいた父の所に、朝早くから行って教えてもらいました。

 父に会いに行ったのは、稽古だけでなく寂しさを紛らすためだったのかもしれません。高校は私立の男子校でしたが、能楽を修行中との配慮から、午前中の授業を受けるだけで下校という特殊な存在でした。学校にいる時間が短かったこともあり、同級生との付き合いはほとんどありませんでした。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2015年6月27日掲載)

写真:幼なじみの阿部義一君(左)と私=松代帰省時

 
中村孝太郎さん