
「旅館や料理屋に売れる人気の野菜の種はないかな」。農閑期に善光寺に参拝する農家の人たちは、野菜の種や苗を扱う店に立ち寄り、翌年何を作ろうか―と胸算用をしたのだろう。江戸時代から戦前まで、農家の参拝土産は種や苗木の最新情報だった。種苗販売は近年、大手の会社や農協、ホームセンターなどに押されぎみというが、門前かいわいには種苗店がいくつかあった。
善光寺の本堂で参拝をした帰り道、仁王門の手前で右に曲がるとすぐ、「原種苗店」がある=写真。明治時代創業の老舗だ。
初代の原清一郎さんがやり手だった。「たねせー」のニックネームで、北は牟礼、野尻へ、さらには県境を越えて田口辺りまで行商に出掛けた。宿に着くと、得意の義太夫を語って人を集め、良い種の効能と収量を宣伝して売った。すると、在郷の人たちも善光寺参拝の折に店に立ち寄るようになり、商圏が広がった。
その後、代々の店主は通称が「たねせー」になり、3代目は努力家だった。近くの教会の宣教師、ダニエル・ノルマンさんに弟子入りして、英語を学び、タイプライターを習得した。カナダ生まれのノルマンさんは1902年から長野市を中心に活動。長野での英語教育や、34年の引退後に住んだ軽井沢で取り組んだ生活基盤整備への貢献など、長野県の近代史を語る上で欠かせない人物だ。
3代目は外国の種苗店と文通して取り引きし、珍しい野菜を導入した。信濃町の野尻湖周辺が外国人避暑地になると、ジャムにするルバーブやブルーベリーの相次ぐ注文に応えた。
ノルマンさんは、味が良く、豊産種のトウモロコシを米国から取り寄せ、布教手段として農民に配ったという。助手の女性宣教師のあだ名は「田舎がいっぱい」だった。「菓子や漬物を勧めると、『おなかがいっぱい』と遠慮するのが口癖だった。けれども、『おなか』と『田舎』の発音が区別できなかったので、あだ名がついた」という。6代目の原覚さん(80)の思い出話だ。
愛知県から源助という種の行商人が善光寺参拝に来て宿泊。円筒形の「源助だいこん」を宣伝した。太くて軟らかくて、宿屋の煮物に最適だと、栽培が流行した。珍しい野菜には栽培ノウハウが必須だ。肥料や天候の情報も種苗店が提供した。
薬、調味料とともに、野菜の種や農産物情報は善光寺参拝の御利益でもあった。明治、大正から戦後にかけて善光寺平の畑作を支えた力の一つは、門前町の種苗店だった。旧満州(中国東北部)への開拓団とともに、中国大陸に進出し、終戦で戻ってきた店もあるという。
(2015年5月30日号掲載)