
西鶴賀町にあり、2012年に閉館した映画館「ニュー商工」の前身は「菊田劇場」だ。記録によれば、菊田劇場は芝居小屋として立案され、1927(昭和2)年に開館した。歌舞伎の回り舞台を備え、1階はイス席、2階は畳敷きのマス席仕様だった。定員は1500人を超える。
ここに掲載したのは、建前(上棟式)の写真だ。居並ぶ職人の数を見ると、当時としては注目を集めた大規模な木造建築だった。右端の小屋前に写っているのは人力車。大正末期から昭和の初めにかけて活躍した「リキシャ」である。
写真は建設を請け負った元業者が持っていた。子孫の一人は「これだけ大きな建築になると、柱や(梁)(はり)など構造(躯)(く)(体)(たい)の重みを緻密に計算しないと、建設中に自壊する恐れがある。経験則だけで建てたとしたら、見事だ」と話す。
菊田劇場は戦後、「商工会館」となり、83(昭和58)年に建て替えられ、ニュー商工となった。「会社の同僚と酔いざましに入り、座布団を枕に寝ながら映画を見た」と思い出を語る年配者もいる。
明治時代、善光寺の東側には、常盤井座や三幸座があり、人気を集めた。1897(明治30)年、裏権堂にあった「千歳座」が初めて無声映画を上映した。トーキー時代になり、戦後の最盛期には、市内の映画館は14館を数えた時期もある。
新作を封切る一番館は、権堂に松竹なら相生座、東宝なら中央劇場、洋画なら長野駅前近くに千石劇場と千石第二だった。東映が躍進すると、直営の東映劇場が権堂に新築開館した。中村錦之助、東千代之介、市川雷蔵、市川右太衛門、美空ひばり、江利チエミさんらが銀幕を飾ったころだ。
さらに新東宝が躍り出て、平林に長野劇場、長野第二が開館した。石堂町には活動館、駅近くには大型画面のスカラ座(後にパレス)があった。東鶴賀の東劇、七瀬劇場、吉田劇場などは、旧作2本立て、3本立てで安い料金を設定し、学生らの人気を集めた。
菊田劇場は映画に限らず芝居や興行、歌謡ショーでも親しまれた。商工会館時代は、東映系列の2番館として命脈を保った。ここでひばりさんやチエミさん、田端義夫さんを見た―と語る人もある。
私も小中学生だった昭和30年代ころ、映画館関係者の子弟が株主招待券を束にして持ち、自慢げに配り歩いていたのを覚えている。
数年前、善光寺近くにあった「演芸館」の株主総会記録が、醸造業の老舗だった「あいづや本店」で見つかり、県立歴史館に寄贈された。それによると、戦前の入場者数は景気に左右され、配当ができた年は少なく、無配の時期が大半だった。映画人気の華やかさとは対照的に、経営は苦しかった。
(2015年6月27日掲載)