母のしつけ
人問はば 鷺を烏と 言ひもせめ 心が問はば 何とこたへん
人知らぬ 心に恥ぢよ 恥ぢてこそ ついに恥ぢなき 身とはなりなん
何とも厳しい―。という以上に、グサッと胸に突き刺さってくる。この歌の通りに己の心と向き合うよう迫られれば、大概の人は、ぐうの音も出ないだろう。

1首目。他人に問われたのであれば、サギをカラスと偽ることもできるでしょう。けれども自ら自分に問いかけたときには、どう答えられますか。自分の心まではだませない。
2首目。他人には知られないで済んだにしても、自分の心に恥じなくてはいけません。恥じることを知ってこそ、恥じることのない人間になれるでしょう。
〈この2首の歌を、いつもいつも母は私に説いて聞かせました。私もこの歌は一生忘れないで守っています〉
こう述べているのはほかでもない。明治の初め、官営富岡製糸場でフランス式器械製糸技術を習得し、蚕糸業の近代化に若い女性の身で貢献。ひいては信州を蚕糸王国へ盛り立てる道を歩んだ横田英、結婚後の和田英である。
現在の長野市松代町松代、かつての松代藩中級武士横田数馬の2女。満15歳で富岡製糸場の伝習工女となり、1年3カ月にわたる体験を後に「富岡日記」として書き残した。
富岡から帰郷し、松代郊外西条村に開設した日本初の民間蒸気器械製糸場「六工社」で、後輩工女の指導に当たっている。郷里のために役立ちたいと、懸命に尽くした日々。それを克明につづったのが「富岡後記」である。

いま松代町西条に六工社跡を訪ねても、夏草の間に石垣の一部がのぞくのみだ。だからなおのこと、約140年前にまだ10代の少女が、父母のため、家のため、国のため、新たな器械製糸技術をこの地に根づかせようと、夢を抱き、情熱を注ぎ、奮闘した面影がしのばれる。
きりりと胸を張った生き方の背骨をなした一つが母親、亀代子(亀代)の教育だ。和田英第3の著作「(我)(わが)(母)(はは)(之)(の)(躾)(しつけ)」が物語る。昭和初期、松代小学校の書庫から見つかり、修身の授業や家庭教育の教材に使われた経過がある。
1987(昭和62)年には「現代口語訳 信濃古典読み物叢書第2巻富岡日記」(信濃教育会出版部)に「我母之躾」も盛り込まれ、読みやすくなった。今回の2首もそこからの引用だ。

「我が心に恥じないように」との教えは一見、古めかしい印象を抱かせる。しかし現に娘の英は、新しい世を切り開く役割を担う女性に成長している。その行動は、ひたむきに時流に先駆けている。
むしろそこには18世紀英国の産業革命が、禁欲と勤勉のピューリタニズムを伴った歴史と相通うものがある。明治という時代は、こうして夜明けを迎えた。
旧横田家の母屋(写真上)
〔旧横田家住宅〕松代城下の中心部にある国の重要文化財。中級武士の暮らしぶりをうかがわせる。英の弟、横田秀雄は大審院長、現在の最高裁長官を務めるなど優れた人材を輩出した。
(2015年6月20日掲載)
写真:内部の展示パネル