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06 初舞台~「橋弁慶」ツレ役こなす 能に人生懸ける決意

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 入門して翌年の1959(昭和34)年、初めて役を頂いて水道橋の能楽堂で初舞台を踏みました。「橋弁慶」のツレ(従者)の役で、うれしさと大変緊張した覚えがありますね。長袴をはき、太刀を持ちましたが、歩きづらく、太刀が重くて刃先が下がってはいけないので、気を使いました。
 舞台で私が最初に発した詞(ことば)は、シテ(主役)である武蔵坊弁慶の「いかに誰かある」の問いに対する「御前に候」でした。私の詞はあまり多くありませんでしたが、初めての役を何とかこなして、「舞台とはこういうものか」「これから私の能楽の人生が始まるのか」と自分に言い聞かせました。

 目黒で父と暮らす
 高校卒業と同時に、下宿していた川崎市の叔父の家を出て目黒区のアパートで、父と一緒に暮らし始めました。父と私は東京で、母と姉は長野でという二重生活は、相変わらず続きました。アパートでは父も私も結構自炊をし、豚肉を使ってポークソテーやトンカツをよく作りましたね。父はアパートからお弟子さんの出稽古に出かけ、私は高校を卒業したばかりで収入はなく、いわば親のすねをかじって能の稽古を続ける毎日でした。
 そのころの思い出といえば...。「東洋の魔女」と呼ばれた日紡(ニチボー)貝塚女子バレーボールチームの大松博文監督(故人)が、近所に大きくて立派な家を新築したことですね。

 1964年東京オリンピックで金メダルを取り「おれについてこい!」の名文句と、「鬼の大松」の名で知られ、後に参議院議員になった人です。ご本人の姿を見掛けたことはありませんでしたが、まだ若かった私は「一流で有名になると、こういう豪邸に住めるのか」と、うらやましい気持ちになりました。

 また、アパート近くにあった碑文谷の公園で謡曲を練習している時、偶然に早稲田大学の謡曲部に所属していた学生に声を掛けられたことがありました。渡辺三郎先生のお弟子さんの岩井嘉樹という人で、現在石川県に住んでいて今も賀状を交換しています。

 入門して2、3年たつと、東京にも慣れ、謡曲が少しずつ分かってきました。松代に帰っても逆にネオンが恋しくなり、私なりに大人になったと思ったこともありました。

 「道成寺」で悩む
 謡曲と仕舞の稽古を続けている中で、能楽の流儀のしきたりや決まりがあることを知りました。その中で能楽師の登竜門と言われる「道成寺」の曲は、私のように比較的年齢の高い、いわゆる中年からの入門者は演じることができず、また家元の許しが必要であるということを知り、ずいぶん悩みました。

 先輩に相談したところ家元に聞いてくれ、数日後その先輩から「家元は『これからは本人の努力次第だ』と言っていたよ」「オラホー、頑張れ」と力付けられて心が開けた思いでした。松代では自分のことを「オラホー」と言いますが、私が楽屋でよく使っていたため、私のあだ名になっていました。

 そのころに出合った言葉が武者小路実篤の「この道より我を生かす道はなし。この道を行く」です。この言葉を座右の銘にして「能に人生を懸けよう」と心に決めました。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2015年7月04日掲載)

写真=「橋弁慶」でツレ役を演じる私(左)


 
中村孝太郎さん