
20歳のころ、高校時代の恩師である杉本先生から「能楽師になったのだから自分の会をつくりなさい」と勧められました。先生に「淑宝会」と命名していただきましたが、名前の由来は「孝太郎君の生き方は、親孝行と心の優しさという意味合いの『淑』に通じるものがある」とのことでした。
宝生流の「宝」を付けて「淑宝会」とし、1964(昭和39)年11月に初会を代々木の旅館で開きました。発足当時のお弟子さんの数は、父のお弟子さんを引き継いだ2、3人で、まだ名前ばかりの会でした。
うれしさと緊張と
66(昭和41)年に「小鍛冶(こかじ)」で初シテという主役が付きました。刀工の小鍛冶宗近が稲荷明神の相槌で剣を打ち上げる(作る)という物語ですが、「相槌を打つ」の語源になった曲と言われています。
シテは、前場は童子、後場は稲荷明神の使いであるキツネを演じますが、初めての主役ですので、うれしさと同時に、緊張も伴って稽古に熱が入りました。シテの面(おもて)を顔に着け、すり足の運びと自分の舞台での立ち位置に神経を集中しながら練習しました。
特に後半は、台に上がったり降りたりと相当動きが激しいので、しっかり腰を入れていないと、ふらついてしまいます。そんなことを注意しながら、先輩たちや若宗家にも見ていただきました。
初シテを演じた日、水道橋の能楽堂に長野から母が見に来てくれたと思います。その時の地謡(舞台上で通常8人で謡う)を司(つかさど)る地頭(じがしら)が佐野巌先生でした。佐野先生から演じる前に「しっかりやりなさい」と声を掛けられました。また、終わってからは「よくできたよ」とのお褒めの言葉を頂きました。
父は地謡の一人として同じ舞台で私の演じる姿を見守っていたと思います。初シテを無事務め上げ、拍手を浴びて舞台を去る時の喜びと安堵感は今も忘れられません。

25歳で家を買う
25歳の時、いつまでも父とアパート暮らしをしてもいられないと一念発起して、両親に相談して、家を買うことにしました。神奈川県海老名の登記所まで何度も足を運んで、念入りに調べて、狭いながらも同県座間市に30坪ほどの一戸建ての中古住宅を買いました。資金の大部分は親が援助してくれたのですが、若いうちにわが家を持ててうれしかったですね。
最寄りの小田急相模原駅から能楽堂のある水道橋までは電車で1時間20分ほどかかりました。電車が混んでいてなかなか腰掛けられなくて。車内ではつり革につかまりながら謡本を広げていました。
東京の生活にも慣れ、良き先輩にネオン街に連れて行ってもらい、マージャンも覚えました。ネオン街の華やかさがこんなにも楽しいものかと思うようになりました。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2015年7月11日号掲載)
=写真1=舞台に出始めのころの私 「俊成忠度」のツレ役
=写真2=購入した座間の自宅前で