
ある時、東京の淑宝会会員の1人から「千葉県八千代市へ転居します。謡曲と仕舞の稽古を続けたいので八千代台まで来ていただけますか」との話がありました。私は忙しくなかったので「いつでもいいです。伺います」と引き受けました。
1968(昭和43)年に7人のお弟子さんが集まり、稽古が始まりました。神奈川の座間市の自宅から東京を越えて千葉の八千代市まで電車で2時間以上。ちょっとした小旅行でしたが、月に3度ほど通いました。
稽古場は興津ナカさんという方がご自宅2階の10畳間を提供してくれ、お弟子さんたちは私のために1人でも多く稽古仲間を増やそうと一生懸命でした。
弟子だった妻
興津さん宅には私と同じ20代のご家族がおり、食事をごちそうになったり、淑宝会の大会(発表会)に出てもらったりなどで大変よくしていただき、今も感謝しています。八千代市のお弟子さんは主婦の方々ばかりでしたが、謡曲、仕舞とも皆熱心で、教える側の私もやりがいがありました。
淑宝会の会員は日頃の成果を東京・中野区の藤舞台や銀座6丁目の銀座能楽堂、水道橋の能楽堂で発表しました。一曲の能の主要な部分を笛や鼓と謡に合わせて舞う舞囃子(まいばやし)、謡だけに合わせて舞う仕舞、座って謡うだけの素謡(すうたい)を意欲的に披露しました。
中には緊張のあまり体調を崩す人もいましたが、舞台を終えると皆笑顔で満足感に浸っていました。銀座能楽堂の舞台の時は、終わった後に銀座を散策する「銀ぶら」を楽しみ、買い物をしたり食事したりと、なかなかおしゃれで華やかな発表会でした。
その時の八千代市のお弟子さんの中に高田家の母娘がいました。その娘が今の妻の桂子です。能の稽古が2人の出会いになりました。
桂子は東京の会社の診療所で歯科衛生士として働いており、仕事を終えて八千代台の自宅に帰宅してからの夜の稽古でした。私は他のお弟子さんの稽古を終えた後、高田家で彼女の母親(千代子)の手作りの夕食を頂きながら、桂子の帰りを待っていました。
若宗家の仲人で挙式
母娘の稽古が5年ほど続いたある日、水道橋の能楽堂に桂子が私のお見合いの話を持って訪ねてきました。私はお見合い相手の写真も見ずに断り、その場で彼女にプロポーズしました。それまで稽古ばかりで、一度も2人でデートなどしたことがなかったので、彼女の驚きはひとしおだったことでしょう。
高田家は開業医だった父親が、桂子が高校1年の時に他界し、母娘2人で暮らしていました。後日、彼女は私の結婚の申し込みを快諾してくれ、半年足らずの婚約期間中に郷里の松代に2人で行くなどして、心ときめく日々を過ごしました。
73(昭和48)年11月、若宗家の宝生英雄先生の仲人で上野の東天紅で結婚式を挙げました。私が31歳、桂子が26歳の時でした。新婚生活は桂子の実家の八千代台で始まりました。独身時代は外食が多かったので、母娘の手料理が楽しみの一つでもありました。
結婚して2年後に長女の千香が、5年後には次女の千絵が誕生。八千代台の家庭がにぎやかになりました。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2015年7月18日号掲載)
=写真=1973年に桂子と挙式