
松代町の「大室古墳群」は、広さが2.5キロ四方にも及ぶ。1997年には、この中の大室谷支群の16ヘクタール部分が国の史跡に指定されている。5世紀中ごろから8世紀に築造されたとされる同古墳群は信州の歴史を語る大規模遺跡だが、「どんな集団が造ったか」がミステリーだ。
500基余の墳墓のうち8割が石だけで築かれた「積石(つみいし)塚」。一番大きいのは「将軍塚」と呼ばれ、直径が22メートル、高さが8メートルもある。積石塚の集中度とともに、屋根のように石を組み合わせた「合掌形石室」が特徴である。
修学旅行で知られる奈良県明日香村の巨石古墳「石舞台」と同じくらい興味深い。歴史の教科書に載っても恥ずかしくない。
戦後、大室古墳群に注目し、発掘調査を続けたのが明治大学の研究者たちだ。考古学の泰斗・大塚初重さんと教授の小林三郎さんらが主導した。夏休みに学生たちと近くの公民館に合宿し、地道な作業を終日続けた。
15年ほど前、発掘現場に小林さんを訪ねた。炎天下、黙々と作業をする学生たちは汗まみれだった。「馬具類がたくさん出土しているので、被葬者は渡来人で、馬生産の技術者と思われる」と、小林さんは出土した埴輪(はにわ)の写真を見せてくれた=写真下。

大規模な古墳群を造るのには、数千人以上を束ねる強力な権力が存在していたはずだ。だが、古墳の築造が消えて、その存在はどうなったか、どこへ行ったのか―。地元にもはっきりした伝承がない。
「長野市誌」編集を主導した古川貞雄さん(元県立歴史館学芸課長)が注目するのは「大室古墳渡来人説」だ。「日本書紀にある666年の記述に、百済からの男女2千人余を東国に移住させた―とあり、朝鮮半島から大勢、信濃に移住しているだろう」と話す。
乗馬する武人が活躍する朝鮮半島の勢力は、大和政権にとって大きな脅威だった。優秀な馬は、近代戦争の戦車にも相当した。標高の低い海岸地帯は害虫や病気が馬の繁殖を阻む。「信濃十六牧(じゅうろくまき)」と呼ばれるように、冷涼で緑豊かな信濃は馬の生産に格好の風土だ。
大室古墳群を築いたのは、千曲川西岸の人たちだという推測もある。大規模古墳を築くには、大きな生産力や耕地が必須の基盤だからだ。だとすれば、馬生産の技術者集団はどこへ行ったのか、謎は深まるばかりである。
地元住民の古墳群保存活動は100年余の歴史がある。江戸時代から注目された大室古墳群で、戦後の本格調査の端緒になったのは、地元の寺尾中学教諭だった栗林紀道さんらだった。地元の青年たちの協力で501基を確認し、番号を付けた。妻が大室出身という後藤守一明大教授が、教え子の大塚初重さんを連れて調査に入ったというドラマもある。
(2015年7月25日号掲載)
=写真=古墳群にある「大室古墳館」