春に我 乞食(こじき)やめても筑紫かな 河合曽良
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日本を代表する紀行文学といえば、何はさておき松尾芭蕉の「おくのほそ道」だろう。同行二人(どうぎょうににん)、行程約2400キロの長旅を支え合って歩いたのが、信州人の河合曽良だった。
芭蕉より5歳年下で1649(慶安2)年、上諏訪宿の酒造業、高野七兵衛の子に生まれた。どういうわけか母の実家で養育される。
さらに伯母の嫁ぎ先である福島村、今の諏訪市中洲福島の岩波家へ養子入りした。岩波庄右衛門正字(まさたか)を名乗ることになる。
ところが、養父母ともに相次ぎ死去してしまう。やむなく伊勢国長島(三重県桑名市)の寺で住職をしている叔父を頼って旅立った。12歳のころらしい。
経歴にあいまいな部分が多い。二十のころ、長島藩に武士として抱えられ、河合惣五郎と称した。曽良は俳人としての名だ。
「おくのほそ道」には曽良のことがしばしば登場する。日光東照宮を訪れたくだりで、芭蕉はこう記した。

〈曽良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて予が薪水の労をたすく〉
曽良は河合氏、名は惣五郎。江戸深川の芭蕉庵近くに住み、私の家事や炊事の手伝いをしてくれる。こんな意味だ。今回は、松島や象潟の景色を一緒に楽しみ、あるいは私の旅の難儀をいたわろうと同行する、とつづる。
よほどの覚悟だったのだろう。出発に当たっては髪をそり、僧侶のまとう墨染めの衣。名前の惣五郎は法名らしく惣五を宗悟と改めた。
東北、北陸の名所旧跡をたどる旅は、150日余りに及び、美濃の国大垣で終わる。しかし、旅そのものが人生である芭蕉にとって、一つの旅の終わりは次なる旅の始まりだ。
それから5年後、西国へ再び長途の旅に出た芭蕉は、大坂で病没。以降、曽良の俳句人生も精彩を欠いていく。
一時は消息さえ途絶えた曽良が晩年、身分を武士に戻し、こつぜんと表舞台に現れた。1709(宝永6)年、幕府の諸国巡見使「岩波庄右衛門正字」としてだ。
翌年3月半ば、北九州へ出発する。冒頭の句は旅立ちを前に詠んだ辞世と受け止められ、後に上諏訪の菩提(ぼだい)寺、正願寺の墓碑に刻まれた=写真下。
春になれば、自分は重大な役目の巡見使として筑紫に向かう。これまでのように風雅の道に浸っているわけにいかない...。気持ちを入れ替えたのだった。

一行44人で唐津(佐賀県)を見回り、対岸の平戸藩壱岐島に渡る。北端の勝本までたどったところで曽良は病に倒れた。そのまま5月22日、客死である。
享年62歳。当時の寿命では老境に差し掛かっている。曽良は、どういうつもりだったのだろうか。考えれば考えるほど、壱岐を訪ねたい願望が突き上げてくる。思いがけずチャンスは巡ってきた。
〔巡見使〕江戸幕府が将軍の代替わりごとに派遣した地方監察の臨時役人。宝永6年、6代将軍徳川家宣となったときの諸国巡見使は、全国を8つの地域に分けて実施している。
(2015年7月18日号掲載)
=写真1=正願寺に立つ曽良像