
上田小県地域には、50年ほど前まで5路線の民営鉄道があった。その一つが丸子線だ。上田市から信越線(現しなの鉄道)・大屋駅を経て旧丸子町まで、約12キロを結んでいた。
長野から50分。大屋駅は千曲川のほとりにあり、南からの支流・依田川の合流点に近い。依田窪地域(上田市丸子・武石、長和町)の入り口であり、和田峠を越えて諏訪へ通じる街道の起点でもある。
大屋駅前から路線バスに乗車。20分で「丸子駅」停留所に着く。停留所前には、大型ドラッグストアが立っている。ここが終着駅のあった場所だった。

最寄りの交差点名は「駅前通り」。角には「丸子駅前郵便局」。1969(昭和44)年の廃線から半世紀たった今でも、地元の人は付近を「駅前」と呼ぶという。近くの料理店主の男性は「昔はとてもにぎやかだった。製糸が盛んだったころは、芸者が上がる店も並んでいた」と話した。
丸子は製糸の町だった。1873(明治6)年に器械製糸が始まり、明治30年ごろに工場が増加。大正時代の全盛期には数千人の工女がいたという。丸子線もそのころ開業した。
しかし、いい時代は長くなかった。1929(昭和4)年の世界恐慌で倒産が続出。戦時中は軍需工場に転用され、終戦時には製糸工場は消えた。
鹿教湯へ向かう国道254号沿いに、丸子郷土博物館がある。こうした製糸業の盛衰を、多くの当時の道具と共に紹介している。
「駅前」にあるシナノケンシ(旧信濃絹糸紡績)本社内には、「絹糸紡績資料館」もある。絹糸紡績は、製糸工場では物にならないくず繭やくず糸をリサイクルし、美しい絹糸に仕上げる。精密モーター製造で世界的企業になった同社のルーツには、丸子らしさがある。
町中心部を依田川が流れ、かさをかぶった釣り人が糸を垂れている。支流の内村川とのデルタ部は急峻(きゅうしゅん)な山で、中世には丸子城があった。戦国時代、徳川家康が真田昌幸を攻めた時、上田城を攻略できなかった徳川方はここも攻めたが、落ちなかった。

現在は公園になっている。遊歩道を20分、標高にして100メートル登ると、「二の郭(くるわ)跡」に中世のやぐらを模した展望台がある。丸子市街地から大屋、菅平まで一望できた。攻め来る軍勢も手に取るように見えただろう。
上丸子駅があった場所の近くには、れんが造りの「カネタの煙突」が立つ。危険防止のため下部の3分の1のみが残るが、36メートルの高さでそびえていたカネタ製糸場の煙突で、丸子の製糸全盛期のシンボルだ。今、その周囲には真新しい太陽光発電パネルが並んでいた。
製糸業も、丸子線も、50年ほどで消えた。栄枯盛衰と諸行無常が胸に迫る。
(竹内大介)
(2015年8月8日号掲載)
=写真=丸子中央小に沿う道路は、丸子線線路の跡(上)。丸子文化会館近くには電気機関車が保存されている(下)