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10 長野に稽古場 ~地区淑宝会ができる 華やかに初会大成功~

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 私が31歳だった1974(昭和49)年に、大先輩の金井章先生から「中村君は故郷の長野に教えに行っているのか」「長野に稽古場はあるのか」と聞かれました。「まだないです」と答えると「私がつくってあげよう」ということになりました。

 当時、須坂市に「紫雲会」という金井先生の同門会がありました。その会長さんや幹事さんに私を紹介してくれ、その年の9月に「紫雲会」会員の中から12人ほどが私の主宰する「淑宝会」に移ってくれました。

 長野の淑宝会初代会長は中島将之さんでした。その後、近藤政雄さん、境善一さん(故人)、中島輝行さんが引き継ぎ、今の5代目を近藤さんに再び務めていただいています。ご婦人の市川修子さん、越かねさんには、初めから現在まで幹事などのお世話をお願いしています。

仕舞を根付かせる
 そのころは稽古場となる適当な集会場がなくて、北須坂の銭湯の2階広間を借りました。最初の稽古は「女郎花(おみなめし)」の素謡(すうたい)だけでした。まだ、長野では仕舞の稽古がほとんど行われておらず、「どうしたら仕舞が根付くだろうか」と考えた末に、同じ月謝(稽古代)でスタート。全員が仕舞の稽古に参加してくれました。

 お弟子さんたちに「私は体力、気力、時間があるから、いつでもどこでも稽古に行きます」とお願いしたところ、荒井原(高山村)、中野市、豊野(長野市)、吉(長野市)、松本市、岡谷市、黒姫(信濃町)、上田市に稽古場ができました。うれしかったですね。

 長野県内に稽古場を持って5年後、長野地区「淑宝会」の初会を開きました。会場は須坂の臥竜公園にある敷舞台でした。謡だけの他の会の発表会とは違って仕舞が新たに加わったことで、舞台が一層華やかになりました。宝生流の流友の方たちが応援出演し、金井先生や父も来てくれて、初会は大成功でした。

 須高地区の謡い会でも会員が舞いましたが、仕舞をやらない他の先生のお弟子さんたちが不安げに見ていました。おそらく舞いの途中で間違ったり、次の動作を忘れて立ちっぱなしになったりするのを心配したのでしょう。しかし、皆が無事に舞い終えるのを見て、そのお弟子さんたちも仕舞を稽古するようになったと聞いています。

会員の遺志を実現
 長野の稽古を通じて忘れられないことがあります。荒井原のリンゴ作りの名人と言われた松本勲さんと「高山で薪能(たきぎのう)をやりましょう」と意気投合したことです。しかし、松本さんが亡くなられ、その計画が駄目になりかけました。

 この話を会員の小林正信さんにしたところ、小林さんが松本さんの遺志を受け継いで尽力してくれました。そして96年8月30日に高山村のYOU游ランド屋外広場で、悲願の薪能「土蜘(つちぐも)」が実現しました。

 稽古場の一部はなくなりましたが、長野への出張稽古は現在も行っており、毎月1週間ほど武井神社の社務所などをお借りして教えています。私がこうやって今でも長野と関わり合いを続けていけるのは、宝生流の流友はじめ地元の方々の応援があるからこそです。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2015年8月1日号掲載)

=写真=長野県「淑宝会」の会員たち(前列中央が私)

 
中村孝太郎さん