
私が住んでいる千葉県八千代市は住めば都で、大変住み心地の良い所です。能楽を通じていろんな人と知り合い、人脈もできました。能を八千代市に根付かせ広めたいと、交友を通じて能の魅力、素晴らしさを宣伝しました。
そうした中、1989(平成元)年に八千代市の有力者の間で「市として薪能をやってみよう」という話が持ち上がりました。中心になったのは若手のグループ「八経会」です。話はとんとん拍子に進み「八千代薪能実行委員会」が発足しました。
市始まって以来
八千代市での薪能公演は市始まって以来のことであり、実行委員の方々の理解を得るために能のビデオを見せたり、直接私が謡を謡って聞かせたりしました。当時の仲村和平市長はじめ市民の方々が「能は文化的であり、八千代市にふさわしい」と一丸となって盛り上がり、うれしかったですね。
薪能は野外で薪をたいたかがり火の明かりの中で演じます。五つほど設置されたかがり火が夜を照らし、その中で繰り広げられる能が見る人を幻想と幽玄の世界にいざないます。気になるのが天候と火の粉です。野外能なので雨が降れば中止せざるを得ません。また、火の粉が舞台近くの観客席まで飛んでいくので、会場にワラのござを用意し、火の粉をござでよけてもらうよう工夫しました。
東京から舞台装置の業者を呼び、公演の前日から一日がかりで市民会館大ホール・多目的広場に舞台が完成。事前のポスター張りや当日の駐車場の整理、学校からの生徒たちの輸送など、八千代市の皆さんが手伝ってくれました。
公演の日の9月30日。曇り空でしたが、幸い雨の心配はありませんでした。午後2時に開演した昼の部が終わると、仕舞と舞囃子(まいばやし)が演じられました。仕舞は父・中村作治郞の「猩々(しょうじょう)」と恩師・渡辺三郎先生の「鵜之段」。舞囃子は宝生英照(ふさてる)・宝生流若宗家が「放下僧(ほうかぞう)」を舞いました。
この後、薪に点火する「火入れ式」を行い、狂言の「棒縛(ぼうしばり)」に続いて、いよいよ薪能のスタートです。夜の舞台がかがり火の明かりでオレンジ色に浮かび上がっていました。
豪華な顔ぶれで
薪能の演目は「船弁慶」です。兄頼朝と不和になり都落ちする源義経と静御前の悲しい別れ。波間から襲いかかる平知盛の亡霊と義経、弁慶との壮絶な戦い。この前後の変化に富んだ展開が見ものです。
私は前シテ(主役)の静御前と後シテの平知盛の亡霊の2役を演じました。舞台後方に宝生若宗家と渡辺先生が後見(こうけん)役で座りました。地謡は本間英孝、小倉敏克、小林与志郎、当山孝道。それに佐野登、金井雄資、朝倉俊樹と父・作治郞の8人。とても豪華な顔ぶれでした。
薪能は大成功のうちに終わりました。実行委員長の山西裕三さん(故人)、それに事務局の市東国昭さんと私が抱き合って喜んだことが、今も忘れられません。初めての薪能の成功により、その後も八千代市の記念行事の大きなイベントとして市制30周年に薪能、40周年に蝋燭能(ろうそくのう=薪の代わりに大きな蝋燭を使う)が催されています。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2015年8月29日号掲載)
=写真=「船弁慶」の薪能で前シテの静御前を演じる