
中山道の妻籠(南木曽町)や奈良井宿(塩尻市)、北国街道の海野宿(東御市)などを筆頭に、県内には宿場の風景を残すところは少なくない。意外に知られていないが、長野市若穂の川田宿も江戸時代の光景が思い浮かぶ一つだ。
若いころ川田小学校に勤務していた城山公民館長の井沢聖次さん(元城東小学校長)は「よく保存整備された街並みに驚かされる」と話す。
市の景観重要建造物に指定されている豪壮な本陣・西澤家の門構えや、有力な問屋、旅籠(はたご)が両側に並んでいる。西澤家の斜め向かいにある「北村家住宅」は母屋などが国登録有形文化財。1887(明治20)年の建築だが、宿場時代の町割りが見て取れることも理由だ。
立派な高札場や、簡易な関所の機能がある口留番所(くちどめばんしょ)跡もある。江戸時代の様相と人々の息吹が感じられる場所でもある。
北国街道の東脇往還にある川田宿は、松代と福島宿(須坂市)の間にある「間宿(あいのしゅく)」である。いわば、正規の宿駅間に設けられた旅人の休憩用だった。1611(慶長16)年に設けられ、1738(元文3)年に洪水のため現在地に移ったとされている。
地元の一部には、「加賀百万石の前田侯が川田宿で休憩した」という伝承があると聞いた。4、5千人に及ぶ加賀藩の参勤交代一行に、川田宿で対応できたのか、いささか大げさな話だ。
九州、中国や東北の各藩と同じように、加賀藩も長旅に苦労した。金沢から江戸まで、平均12泊13日だったという。北陸道の富山、直江津から信州に入り、北国街道を通り、追分から中山道へ―というルートだった。加賀藩から江戸へ向かうには、美濃路から名古屋を通るルートがあったが、北陸道・北国街道ルートは所要日数が短く、経費も安かった。

1798(寛政10)年、11代藩主・前田治脩の参勤記録には18泊19日というのもある。親不知をはじめ、日本海沿いの断崖絶壁や、増水で川留めが頻繁だった千曲川や犀川など、難ルートだ。途中、川幅5メートル以上の川越えは84カ所もあった。難所を通過するたびに、「殿さま、無事に通過」という早馬が金沢へ走った。
北国街道を通る際、川田宿を経由する千曲川東側の脇往還をう回する方法があった。「加賀様、御休息...」の伝承が出てくる由縁とも考えられる。本隊の一部がひそかにう回していたのかもしれない。
近年の参勤交代研究では、各藩財政の疲弊と絡め、さまざまな史実が明らかにされている。川田宿に関する研究成果に期待したい。
(2015年8月29日号掲載)
=写真=川田宿に残る高札場(右)と案内板