行き行きて たふれ伏すとも 萩の原 河合曽良
◇

5月の連休明け、北陸新幹線6時11分長野発下り「はくたか」に乗り込んだ。九州の北、玄界灘に浮かぶ島、壱岐を目指す。江戸時代の俳人河合曽良が、旅の途中で生涯を閉じた終焉の地である。
野鳥や草花など自然観察に向かう一行15人の中に加わった。現地との事前折衝で驚いたのは、思いのほか曽良がよく知られた有名人であることだ。
島巡りの定期観光バスを運行するバス会社に、曽良の墓なども訪ねたい意向を伝えた。すると、「曽良のことで信州から?。だったら、貸し切りをガイド付きで用意しておきます」
昼食を相談した土産物店のおかみさん。「曽良の生まれた信州諏訪とは縁が深いですよ。店には御柱の法被を壁に飾っています」
心強い応対に安心して金沢で北陸本線特急「サンダーバード」に乗り換える。京都から博多までは新幹線「のぞみ」。博多港を超高速船「ジェットフォイル」で出て約1時間10分、午後5時には壱岐の南西、郷ノ浦港に着いた。

305年前の1710(宝永7)年3月1日、曽良は幕府の命を受け、北九州地方の状況を調べて回る巡見使の用人として江戸をたつ。
唐津などを巡り5月7日、一行は郷ノ浦に入港する。翌8日、陸路を北端の漁村勝本までたどった。15日には対馬に向け乗船したものの悪天候で動けない。
人生50年の時代、数え62歳の曽良の身に疲れがたまったのだろうか。宿泊先の海産物問屋中藤家で床に就いてしまう。5月22日、息を引き取った。
その漁港一帯を見下ろす城山公園に上って目を見張る。何と御柱が1本、すっくと立っている。諏訪市が運び、寄贈したのだった。
傍らで1989(平成元)年5月、曽良忌280年祭に建てられた〈行き行きてたふれ伏すとも萩の原〉の句碑が御柱を見上げている。もともとは「おくのほそ道」の旅で詠んだ1句だ。金沢を過ぎて曽良は腹をこわした。師の芭蕉に迷惑を掛けまいと独り先を行く。
〈病身で歩き続けても倒れて死ぬかもしれない。だったらせめて萩の乱れ咲く野原で終わりたいものです〉
惜別の情を芭蕉に書き残したのだった。

城山公園を少し下ると、海を背に曽良の墓がある=写真下。中藤家の墓地の一角だ。両側にきれいな花が供えられている。死して300年余り、信州生まれの見ず知らずの旅人に寄せ続ける島の人の優しい心根に、涙がこぼれ落ちた。
急に一つの想念が浮かんでくる。曽良は行き行きて倒れ伏す場所を探し求め、歩きに歩いていたのではないか。そして行き着いたのが壱岐であったのだ、と。
そういえば芭蕉も死の直前、相通ずる境地を詠んだ。
〈旅に病んで夢は枯野をかけめぐる〉
〔壱岐〕九州と対馬の中間に位置し、古来、朝鮮半島と北九州を結ぶ要衝。江戸時代は平戸藩領だったので長崎県に属する。しかし、交通の便、人や物の交流は福岡との関係が深い。
(2015年8月1日号掲載)
=写真=御柱の立つ城山公園