
千葉県八千代市に移り住んだ一市民として、市のために恩返しがしたいと思っていたころのことです。2000(平成12)年の初め、隣の小高信子さんから「千葉実年大学校で能について講演してくれませんか」とのお誘いがありました。
同大学校は50歳以上の世代に生涯学習・親睦の場を提供しようと、各界有志のボランティア活動で運営されている自主団体です。小高さんは高校教師を定年退職後、同校の副学長をしておられました。
初めは断ったのですが、私なりに講演の内容をいろいろと考えた末、講師を引き受けることにしました。講演を聞く人、見る人の多くが学校の先生や地域のリーダー的な人ばかりです。「能の解説だけでは退屈だろう」と思い、能装束と能面を使って女姿の着付けを実演することにしました。
妻と長女も担当
3月25日、千葉市の県教育会館新館で講座が開かれ、私は約100人の聴講生を前に「世界文化遺産―能への入門」と題して講演。まず歴史や舞台の特色、能面の種類などの話をしました。
能の特徴の一つはさまざまな表情をした能面の存在です。ここで能面について少しお話しします。能面は私たちの世界では面(おもて)と言います。主に主役であるシテが着けますが、面を着けずに素顔のままのことを直面(ひためん)と言います。老人、女性、男性、鬼に大別され、演者は面を着けることにより、単に変身ではなく、面の役柄になりきります。
老人は小尉(こじょう)や個性的な悪尉。女性は娘の小面(こおもて)、中年の深井、老女の姥(うば)、角の生えた恐ろしい形相の般若や蛇(じゃ)。男性は貴公子の中将、武将の平太、少年役の童子。鬼は天狗などのへし見(み)、雷神や動物の精霊などの飛出(とびで)。なかでも女性の面は年齢に心の内面の変化が加わり、優美な顔から嫉妬に狂う鬼女とバラエティーに富んでいます。
講演の中で会場が盛り上がったのは、やはり着付けなどの実演の時でした。実演ではモデルを長女の千香、着付けの手伝いを妻の桂子が担当。妻は初めての経験なので、押さえどころが分からず、汗をかいていました。私が長女の前後に回りながら、妻と2人で装束と能面を着けてなんとか出来上がりました。
全員で謡曲の稽古も
楽屋裏の着付けは一般の人はなかなか見ることができません。このため聴講生は興味津々の様子で、長女が能の女姿に変身した時、会場から拍手と歓声がわきました。そのまま仕舞独特のすり足で会場内を歩き回ると、ため息も聞こえました。
この後、謡本「鶴亀」の1ページのコピーを会場に配り、聴講生の全員で謡曲の稽古をしました。謡ったのは「鶴亀」の最後の部分「山河草木国土ゆたかに...」です。まず私が謡い、続いて聴講生がオウム返しに謡います。「さ~ん~かそうぉも~く、こ~くぅど~ゆぅたぁか~に」。何度も何度も大声を出して謡い、大いに発散していただきました。
講演では聴講生が装束や面に直接手で触れ、扇の持ち方や仕舞の仕草なども教えました。終了後の懇談の中で「これまでにないような楽しい講座でした」との声を聞いた時は、苦労したかいがあったと思いましたね。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2015年9月26日号掲載)
=写真=親子で能装束と面の着け方を実演