
北国街道旧牟礼宿(飯綱町)の外れにある公園に、コケが生え、古びた円すい形の石碑がある。「武州 加州 道中堺」と刻まれている。
「加賀百万石の殿様が、江戸まで半分歩いた」という道しるべだ。地元の人たちの間では「江金の中道(えきんのなかみち)」と、呼び伝えられている。建立は参勤交代制度が始まった江戸時代初期と推定されている。
歩いた時間や日数から決めたと思われるが、実際、国鉄時代の牟礼駅からの運賃は、東京までと金沢までがほぼ同じだったという。
参勤交代は、完全な日本統一には及ばなかった徳川政権の苦肉の策だ。一定期間、大名を江戸に住まわせる。江戸を行き来する行列や江戸屋敷での暮らしなど、多額の費用を使わせることで、大名を統治する有力手段として定着した。
「下にー、下にー」という声で、参勤交代の行列にひれ伏した庶民の本音は「迷惑千万」の一言だったろう。道の小石を掃き、半日から2日にわたり農作業を止めた。加えて信濃路は、佐渡産出の「お金荷(かねに)」や、京都・宇治から将軍家へ新茶を献上する「お茶壺道中」も通過した。弱小大名では及ばない権威のある行列だった。
例えば、お金荷が善光寺町に着く場合、突然に連絡が入る。寺役人が奔走し、門前の庄屋たちに下達する。当日は、夕刻に何十箱ものお金荷(千両箱)が本堂内陣に積まれ、数十人の地元役人も出て、ろうそくの下で徹夜の監視だった。
お茶壺道中は、京都・宇治から将軍家へ新茶を献上する特別な行列である。童謡「ずいずいずっころばし」に「茶つぼに追われてとっぴんしゃん」とある。お茶壺道中の時には、外へ出ずに戸をぴしゃりと閉めよ―と歌っているのだ。
参勤交代では、風呂おけや漬物石、殿様のペットも運んだ。飲料水として国元の井戸水を入れたたるもあった。床下からの敵襲に備え、殿様の布団の下に敷く鉄板も運んでいた。行列は、城の日常を移したものだった。
加賀藩の場合、経費は「今の金で言えば、往復3億円くらい」という推計もある。行列の規模や重々しさなどが、武家が自分たちの権威を示す機会でもあった。
加賀12代藩主の正室・真龍院(しんりゅういん)(1787~1870年)が、牟礼宿の旧家で休憩したのは天保9(1838)年。「住みすてし跡の名残を思ひ出の袖に露そふ旅の中道」と詠んだ。江戸で嫁ぎ、藩主の死後に尼になり、初めて国元へ向かう長旅の途中だった。
(2015年9月26日号掲載)
=写真=中間点を表す石碑(右)と真龍院の歌碑(左)