記事カテゴリ:

094 夜間瀬川

 夜間瀬川

旅にありて友が情けに食ひ足れば家に餓(かつ)うる子らし愛(かな)しき秋霖(しゅうりん)

米負ひて旅ゆくわれに秋雨のしぶきはきびしきのふも今日も

たたかひはすでに敗れつ信濃路の秋霖雨(あきづゆ)に濡れて還るみ魂(たま)あり

                                                 吉野秀雄
    ◇

94-utakiko-1017p1.jpg
 70年前、日本中に戦火の跡が広がったころである。終戦とはいっても、すぐに平和な日常が戻ったのではない。

 米軍機による空襲の怖さからは解放されたものの、食糧難が一段と深刻さを加え、空腹が人々を苦しめた。兵役を解かれた復員者が家路をたどる中、遠い戦地で命を落とした人の葬送が相次ぐ。涙の乾く日は遠かった。

 そんな時代の空気を夜間瀬川のほとりでとらえたのが、吉野秀雄の歌だ。「夜間瀬川」そして「秋霖」のタイトルがついて5首ずつ。「信濃平岡村なる中村琢二画伯が疎開先にて」の前書きがある。

 洋画家の中村画伯とは住まいが同じ鎌倉で、一緒に旅行する仲間だった。吉野の年譜を見ると、1945(昭和20)年10月7日から11月2日まで今の中野市平岡、当時の下高井郡平岡村に滞在している。

94-utakiko-1017p2.jpg
 ちょうど秋の長雨だった。志賀高原から流れ下る夜間瀬川が増水していた。旅の夜の枕元に濁流の響きが届く。友の計らいで空腹を満たすにつけ、家で飢えている子どもたちがふびんでならない。

 石川啄木や若山牧水に比べれば、歌人吉野秀雄はなじみが薄い。けれども、現代歌壇で最も権威が高いとされる迢空賞の第1回受賞者だ。没後に編まれた作品・作家・芸術論、随筆などを含む全集は、全9巻を数える。押しも押されもせぬ実績に輝く。

 1902(明治35)年7月3日、群馬県高崎の織物問屋に生まれた。虚弱な体質で慶応大学経済学部も肺結核で中退。家業を手伝うなどしながら歌の道に入ったものの、ぜんそく、糖尿病、リウマチまで併発。艱難(かんなん)辛苦の連続だ。

94-utakiko-1017m.jpg
 さらに終戦1年前の44年8月、看病に尽くしてくれた妻はつに先立たれてしまった。残された4児を抱え途方に暮れる。安定した収入は望みようもない。新聞の選歌料、書物の印税などで細々食いつなぎ、困窮を極めた。

 時には大量の血を吐き、身動きもままならない病床にあって、65歳の生涯を閉じるまでに詠んだ歌は6200首を超える。むしろ歌によって生かされる。歌を詠むことで生きながらえた―。そう言っても過言ではあるまい。

 中野市の北外れを夜間瀬川は流れる。対岸は高い崖になっており、かつてはチョウゲンボウの繁殖地として知られた。遠目にも白っぽく映る。

 そこを目印に平岡へ向かうと、ブドウやリンゴ畑が広がる。その豊かな田園風景に身を置けば、ひもじかった歳月は幻のごとく遠のいていくのだった。

 〔迢空賞〕歌人・国文学者の釈迢空にちなむ短歌の賞。俳句の蛇笏賞とともに1967年、角川書店が短歌、俳句界最高の業績をたたえる大賞として創設した。
(2015年10月17日号掲載)

=写真1=中野市北部を流れる夜間瀬川
=写真2=ブドウ栽培も盛んな地域
 
愛と感動の信濃路詩紀行