
今回は暮らしの中の能、長野にゆかりのある能についてお話しします。
室町時代に生まれた能は武士から商人、そして庶民へと受け継がれ、長い間愛好されてきました。中でも石川県では、宝生流の能を「加賀宝生」と呼び、発展しました。加賀百万石の城下町・金沢では大工さんや植木の職人さんまで謡の心得があって、屋根や木の上で仕事をしながら謡を口ずさんだため、「謡が天から降ってくる」と言われたほどです。
長野にも、小謡(こうたい)を宴席などで謡ってお客をもてなす「北信流」という習わしが残っています。
「北信流」もてなし
小謡とは、謡曲の中で文句や節回しのよい一節のことです。例えば「高砂」の中の「高砂やこの浦船に帆をあげて...」や「四海波静かにて...」などがそうですね。酒に付きものだからでしょうか、長野では小謡のことを「お肴(さかな)」と呼んでいます。
北は青森の「善知鳥(うとう)」から南は鹿児島・鬼界ケ島の「俊寬」―。200ほどある能の物語の舞台になった史跡は、今も全国に点在しています。最も多いのは京都や奈良を中心とした近畿地方で、長野が背景になったものは「姨捨(おばすて)」「紅葉狩」など8曲ほどです。
物語の舞台に関しては、かつて週刊長野で地元の清水昭次郎氏が「謡跡巡り」と題して連載されたそうですね。読まれた方も多いと思いますが、私も少し触れてみます。
まず「姨捨」です。物語の舞台は千曲市八幡。冠着山(別名・姨捨山)の中腹にある長楽寺。粗筋は、中秋の名月を見にきた男に里女がおば捨ての悲しい伝説を話して去ります。男が夜寝ているところに老女が現れ、月の光を浴びて静かに舞い、夜明けとともに男は去り、老女が1人残されるというものです。
民間伝承のおば捨ての話は深沢七郎の短編小説「楢山節考」や映画でも知られていますが、こちらの舞台は山梨だそうですね。能では山に捨てられた老女が、数ある能の舞の中で最も気品ある「序ノ舞」を舞います。悲惨さを飛び越えて、むしろ神々しささえ感じさせる能です。
「紅葉狩」の舞台は長野市戸隠です。戸隠山にシカ狩りに来た平維盛(これもり)が、高貴な美女に紅葉狩りの酒宴に誘い込まれます。酒に酔って寝込んだ維盛の夢の中で神に「女は鬼だ」と告げられ、やがて鬼女が現れますが、祈りと闘いで退けます。美しい紅葉の風景。美女から鬼女への変身。酒宴から一転して激しい立ち回りへ―。物語の劇的な展開が見ものです。
思いをはせる地
「巴(ともえ)」のシテ(主人公)である巴御前の故郷は木曽町日義と言われています。物語の主な舞台は琵琶湖に面した大津市の粟津原です。巴は戦いに敗れた木曽義仲と共に死のうとします。しかし、義仲は生きて形見を木曽に持ち帰るよう巴を諭して自害。巴は1人寂しく木曽へと落ちのびていきます。
ほかには「兼平」=松本市今井、「熊坂」=信濃町熊坂、「木賊(とくさ)」=阿智村園原、「飛雲」=上松町(木曽山中)、「土車」=長野市善光寺など。これらの地を訪ねて、能の世界に思いをはせてみてください。
(聞き書き・船崎邦洋)
(2015年10月31日号掲載)