
川中島合戦
鞭声粛々 夜河を過る
暁に看る 千兵の大牙を擁するを
遺恨なり十年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す
頼 山陽
◇
正式には、ちょっと難しいタイトルがついている。〈不識庵機山(ふしきあんきざん)を撃つの図に題す〉。不識庵は越後の戦国武将上杉謙信、機山は同じく甲斐の武田信玄だ。
江戸時代、漢詩に抜きん出た才を発揮した頼山陽が、両雄の激突する川中島合戦の場面を描いた絵に触発されて詠み、いまなお広く親しまれる。一つの歴史物語として胸を躍らせる魅力がたっぷりで、つい引き寄せられてしまう。
「鞭声」はまたがって進む馬に当てるムチの音。その響きさえ立てないよう真夜中、上杉軍はひっそり闇に乗じて千曲川を渡る。
夜が明けるや武田側は、霧の晴れ間に上杉の大軍が大将旗を押し立て、まさに迫ってくるのを目にする。
謙信にとって返す返すも残念極まりないことだが、長い歳月をかけて鍛えに鍛えた武術を、いよいよという好機に生かせない。
流れ星のきらめくほどの、ほんの一瞬の違いで宿敵信玄を取り逃がしてしまった...。
こんなふうに謙信に同情しつつ、戦闘のクライマックスが詠み込まれたのだった。

米も麦も豊かに実る川中島平の争奪をめぐり、甲斐と越後の二大勢力が信濃北部で繰り広げた戦いは、1553(天文22)年から1564(永禄7)年までの12年間で5回に及んだとされる。中でも激戦だったのが永禄4年9月10日、謙信・信玄一騎打ちの逸話も織り込んだ第4次の戦だ。
長野市松代町清野と千曲市土口の境をなす妻女山。南から北へ千曲川に向けて半島のように突き出ている。ここに上杉軍1万3千が布陣し、北東へ2キロ離れた海津城には武田軍2万が陣を張る。
戦記物語が伝えるところによれば―。
互いに決着をつけようと備える中、旧暦9月9日の深夜になって上杉軍は妻女山を離れ、今の千曲市寄り、雨宮の渡で千曲川を越え、川中島の平野に進出した。夜明けを迎えても立ち込める川霧が、その動静を隠したままだ。
一方の武田軍は二手に分かれ、信玄自ら率いる8千の部隊が千曲川を渡って八幡原に本陣を置く。残り1万2千が上杉勢を追い出し、挟み撃ちにする作戦で妻女山に攻め入った。

ところが、既にもぬけの殻だ。それどころか八幡原では、霧の中から現れた上杉軍が武田本隊に襲い掛かった。慌てふためくさなかの一幕が、大将同士の直接対決である。
10日午後、上杉勢が善光寺方面へ退いて死闘は終わる。後には両軍合わせて6千ものしかばねが残った。いま八幡原には一騎打ちの銅像が立つ。傍ら葬られた兵士たちの首塚もあり、哀れを誘ってやまない。
〔頼山陽〕江戸後期の儒学者、歴史家。漢詩人としても名高い。18歳で江戸に出て学び、京都で塾を開くなどしつつ代表作「日本外史」22巻を完成。幕末、尊皇攘夷運動に影響を及ぼした。
(2015年10月31日号掲載)
=写真1=謙信・信玄一騎打ちの像
=写真2=妻女山からの見晴らし