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01 秋田から長野へ ~人との出会いで育てられる~

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 秋田県の片田舎で生まれた私が、長野県人として移り住むようになったのは、スキーが縁でした。
 子供のころから体を動かすのが好きで、いつも仲間の先頭に立って走り回っていました。生家は農家だったので、田植えなどの手伝いは、もちろんしっかりやりました。そうしたことが、アスリートとしての基礎をつくり上げてくれたのだと思います。

 高校生になり、スキークロスカントリーに初めて出合いました。軽い気持ちで始めたのですが、3年生の時の全日本選手権で、10キロとリレーで初めて1位になりました。会場が山ノ内町の志賀高原でしたので、これが長野の地と深い縁になるきっかけだったのだと思います。

 卒業後、秋田の湯沢市役所、大東文化大の女子スキー部1期生を経て、長野市の北野建設に入社しました。冬季五輪国内初開催だった1972年札幌五輪への選手派遣を目標に、同社がスキー部を創設している時で、声を掛けられたからでした。

 当時の国内では珍しく、海外(フィンランド)に合宿所を持つなど、社を挙げて熱く取り組んでいました。
 そのおかげもあり、リレーなど3種目で五輪出場を果たしましたが、世界の壁は厚く、思うような結果を残せませんでした。

 その後、同社スキー部のコーチ、監督を務め、全日本覇者の富井弘子、中島和子選手、記憶に新しいところでは荻原健司、次晴選手の兄弟を育てました。
 定年まで北野建設に在籍していましたが、再び五輪の興奮にふれることができました。長野冬季五輪です。招致メンバーの一員に選ばれ、国内はもちろん、開催地を決める国際オリンピック委員会(IOC)総会が開かれた英バーミンガムでも県旗を手に、精いっぱいロビー活動を行いました。
 また、吉村午良知事時代に教育行政に携わり、県の教育委員を2期8年務めました。任期中は胃がんを患いましたが、さまざまな経験をしました。

 北野建設を退職後、長野市内の幼稚園の園長を経て、現在は浅川小学校区の子どもプラザで、施設長として指導員さんの後押しをしながら、子供たちにルールやマナーなどを教えています。子供たちがストレスを発散する場所だと思っていますが、けじめはしっかりつけさせています。
 振り返ってみますと、秋田、長野県と多くの方々に出会い、皆さんに育てていただいたことで、今日があります。人一倍努力し、このご恩に報いたいと思っています。
(聞き書き・塚田裕文)

(2015年11月28日号掲載)

千葉弘子さんの主なあゆみ

1942(昭和17)秋田県雄勝郡山田村(現湯沢市)で生まれる
49(24)山田小学校に入学
55(30)山田中学校に入学
58(33)秋田県立湯沢北高校(現湯沢翔北高校)に入学
59~60(34~35)同高2年後期から3年前期まで生徒会長
61(36)同高3年全日本スキー選手権距離10キロとリレーで優勝
61(36)秋田県湯沢市役所に就職
62(37)全日本スキー選手権距離10キロで2連覇
66(41)世界選手権(ノルウェー・オスロ)10キロ、5キロに出場
67(42)大東文化大経済学部に入学
68、69(43、44)インカレのスキー距離5キロとリレーで2連覇
70(45)世界選手権(旧チェコスロバキア)10キロ、5キロに出場
71(46)ノルウェー・ホルメンコーレン大会10キロ、リレーに出場
71(46)北野建設入社
72(47)札幌五輪に出場(5キロ、10キロ、リレー)
72(47)千葉浩志さんと結婚
72、73(47、48)全日本スキー選手権5キロと10キロで2連覇
80(55)長野県スキー連盟理事に就任
94(平成6~)長野県教育委員に(2期8年)。信大非常勤講師、長野五輪組織委員会選手村専門委員、長野パラリンピック組織委員、長野五輪会常任委員(事務局長)、長野五輪・パラリンピック村副村長などを務める;
2003(15)信学会・昭和幼稚園長に就く
09(21)長野市社会福祉協議会の非常勤職員として浅川子どもプラザ施設長

 
千葉弘子さん