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182 福沢諭吉 ~「先祖は信州福沢の人なり」~

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 日本近代化の功績者・福沢諭吉(1834~1901年)は、大阪の中津藩(大分県)蔵屋敷で生まれた。さらにさかのぼると、先祖は信州である。菩提寺の善福寺(東京都港区元麻布)に福沢家の碑があり、その冒頭に「福沢氏ノ先祖ハ信州福沢ノ人ナリ...」と、はっきり刻まれている。

 「信州の人」は先祖代々から、父で大阪蔵屋敷の会計係だった百助の認識であり、若くして亡くなった兄が自覚していたことだと推測されている。信州側にも「福沢諭吉の御先祖は信州から中津藩へ流浪した」という根強い説がある。

 1984(昭和59)年、1万円札の顔が聖徳太子から諭吉に変わった時、諭吉が創立した慶応義塾の関係者も、諭吉の先祖について調査プロジェクトを立てた。

 諭吉が生涯を記した「福翁自伝」には「...父の百助は、足軽よりは数等宜しいけれども士族中の下級...」とある。調査は善福寺碑文墓誌銘を重要な手がかりにした。

 茅野市豊平の福沢区をはじめ、諭吉の先祖がどこかについて、信州の中でもいろいろな説があるが、筆者が一番有力と思う説を紹介しよう。

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 戦乱の時代、村上義清の一族で配下の福沢氏は、坂城の福沢川渓谷周辺と上田の西方・塩田平を領地に、「近くの前山寺(ぜんさんじ)の有力後援者(大檀那(だんな))だった(郷土史家・黒坂周平さん)。「一族が繁栄すると、地名を通称とするのが習俗になる」(作家・井出孫六さん)。そこで、福沢川周辺の村上氏は、福沢氏になる。

 「福沢氏の本拠は坂城町網掛福沢」という見解を、網掛で代々庄屋を務めた郷土史家、浅野井坦(しずか)さんは示している。塩田平には塩田城が築かれ鎌倉時代から100年余り福沢氏が君臨した。

 当時、東信一の武将・村上義清は武田信玄の先鋒・真田氏に攻められて敗走、上杉謙信に頼る。これが後に川中島の戦いにつながることになるのだが、以降、福沢氏の名前が消える。

 重要文化財に指定されている前山寺の三重塔は「未完成の完成の塔」と呼ばれる。未完成というのは、欄干が付いていないのが理由である。建設途中でスポンサーの福沢氏がいなくなったのだ。

 福沢氏はどこへ行ったのか―。村上一族は平安中期の村上天皇の支流として繁栄した。中でも瀬戸内海の小島群を領地として西日本に君臨したのが村上水軍だ。水運を握り、西日本大名の抗争に加わった。九州西部にも勢力が及んだ。

 東信地方を去った村上・福沢氏は瀬戸内海の一族の中で再起を図った。しかし、村上一族は衰退する。福沢氏は、村上氏の庭である瀬戸内から至近の中津に逃げ込んで、幕末まで雌伏したと想像される。
(2015年12月19日号掲載)

=写真=国立国会図書館蔵
 
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