
里の秋
斎藤信夫作詞
海沼 実作曲
静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実 煮てます いろりばた
明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ父さんの あの笑顔
栗の実食べては 思い出す
◇
秋も深まり、初冬へと急ぐころ、なぜか人恋しさが募る。多くの人の愛唱歌「里の秋」が醸し出す感傷でもあるだろう。この1、2番に続く3番にこそ、「里の秋」誕生までの物語が秘められている。
さよならさよなら 椰子の島
お船にゆられて 帰られる
ああ父さんよ ご無事でと
今夜も母さんと 祈ります
千葉県の小学校教師斎藤信夫が1941(昭和16)年に作詞した当初、このくだりは全く違っていた。3番で終わらず4番まであった。
◇
きれいなきれいな 椰子の島
しっかり護(まも)って くださいと
ああ父さんの ご武運を
今夜もひとりで 祈ります
大きく大きく なったなら
兵隊さんだよ うれしいな
ねえ母さんよ 僕だって
必ずお国を 護ります
◇

昭和16年といえば12月8日、太平洋戦争に突入している。直後の12月21日、戦地にいる父親を子供が慰問する戦意高揚の歌として歌詞は仕上がった。「星月夜」と題し斎藤は、長野市松代町出身の作曲家海沼実に送る。4年後、曲がつかないまま終戦を迎えた。敗戦国となった日本には、中国大陸や南の島々から兵士や一般邦人が疲れきって帰ってくる。
そんな折、斎藤宛てに電報が届いた。〈スグオイデコウ〉。「すぐ来てくれ」との東京の海沼からの知らせだ。駆け付けるや「星月夜」の歌詞書き替えを求められる。
1、2番は生かし、4番は全面カット。3番を南の島から船で復員する父親を迎えるにふさわしく改めるというのである。昭和20年12月24日午後1時45分、NHKラジオ番組「外地引揚同胞激励の午後」で放送するためだ。
新しい3番の「里の秋」に生まれ変わり、当時11歳の童謡歌手川田正子の声でラジオから流れると、反響が全国に広がった。国破れて山河あり。肉親とのきずなを取り戻し、故郷の再生に望みをつなぐ。ともすればすさみがちな世相に、優しい和みのそよ風を吹かせた歌ではなかっただろうか―。

海沼が生まれ育った松代町のつつみ公園に立つ「里の秋」の歌碑と向かい合い、しきりにそのことを思った。
(JASRAC出1513569―501)
〔斎藤信夫〕昭和の童謡作詞家。1911(明治44)年、現在の千葉県山武市生まれ。教師をしながら作詞に打ち込み、戦前戦後を通じて1万を超える童謡を作った。同人誌「花馬車」を主宰。
(2015年11月28日号掲載)
=写真1=深まる秋(長野市神楽橋で)
=写真2=つつみ公園にある「里の秋」の歌碑