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098 秋山のよさ節 ~つらさ乗り越え たくましく~

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 秋山のよさ節

 (音頭)
おらうちの衆(しょ)は おらうちの衆は
嫁をとること のよさ 忘れたか
 (返し)
忘れたか 忘れたか 嫁をとること のよさ 忘れたか

    ◇

 ゆったり長く続く「のよさ節」の冒頭だ。長野県の北東、新潟県にまたがる豪雪地帯、秋山郷で歌い継がれてきた。
 それにしても〈嫁をとること のよさ 忘れたか〉には、どんな心情が託されているのだろうか。けげんに思いながら2番の
歌詞へと関心は向かう。

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(音頭)
忘れはせぬが 忘れはせぬが
稲の出穂見て のよさ嫁をとる 
 (返し)
嫁をとる 嫁をとる
稲の出穂見て のよさ 嫁をとる

 切ないなあ...。そう感じた。家の人たちはおれの結婚のことを忘れているのか。そうじゃない。稲の実り具合を見て嫁をもらうことだってあるさ―。こんなふうに受け取れる。

 志賀高原から流れる雑魚川と群馬県の野反湖を源流とする魚野川が交わり、中津川となって信濃川に注ぐ。その川沿いに細長く点在する12の集落をまとめて秋山郷と呼ぶ。

 途中で長野と新潟との県境が横断している。最上流の切明(きりあけ)から小赤沢までの5集落を信州秋山。川を隔てて大赤沢から穴藤(けっとう)までの7集落を越後秋山と称することもある。

 東に広大な湿原で名高い苗場山(2145メートル)がどっしり構え、西に険しい岩肌の鳥甲(とりかぶと)山(2038メートル)がそそり立つ。両側から山の迫る谷間は深い。冬は日本でも有数の積雪に閉ざされる。耕地にも恵まれない。

 信州最北、下水内郡栄村の役場がある中心部から新潟県津南町に入り、国道405号を中津川沿いに南へさかのぼっていく。越後秋山を通り越し、信州秋山の中ほど、大秋山という古い集落跡を訪ねた。

 〈人家八軒あり...天明三年の凶年に...一村のこらず餓死して今は草原の地となりし〉

 江戸後期の文人、越後塩沢生まれの鈴木牧之(ぼくし)が「北越雪譜(ほくえつせっぷ)」に記したところを目で確かめたかったからだ。

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 中津川の左岸、当時の草原は高く生い茂る樹林に変わり、一角に8軒のお墓と供養塔が並んでいる=写真右。急に胸を締め付けられ、思わず手を合わせた。

 草木を切り払い、焼いた跡にソバやアワを育てる焼き畑で命をつないだ秋山郷だ。一家の嫁をとるのも作物の出来次第だった。哀調を帯びたのよさ節ではあるけれども、決して暗くも弱々しくもない。

嫁とってくりゃ 嫁をとってくりゃ
一駄(だん)刈る草 のよさ 二駄刈る

 結婚できるなら倍も草刈りに励むと歌う。明治に入ってからは、石垣を積んで水田開発も盛んになった。のよさ節は逆境にめげない生命力、たくましい労働の歌でもあったのだ。

 〔天明の飢饉(ききん)〕1783(天明3)年を中心に全国を襲った凶作。享保、天保と並ぶ江戸時代の3大飢饉とされる。浅間山大噴火の火山灰による日照不足も影響した。
(2015年12月12日号掲載)

=写真=水田開拓の石垣
 
愛と感動の信濃路詩紀行