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08 市役所時代 ~自分に厳しさを課す 世界選手権の代表に~

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 秋田国体が終わり、地元の秋田県湯沢市役所に勤めた2年目に、議会事務局に異動になりました。速記者が書いた議事録の清書が、主な業務でした。

 15時過ぎからの練習には影響がなかったので、時間の許す限り汗を流しました。というのも、私は身長が1メートル53と、決して体格に恵まれていなかったのと、競技を始めたのが高校に入学してからと遅かったので、それを挽回しようと思っていたからです。

 日頃10キロのランニングを、時には50キロに増やしたり、また、数キロのスピード走を交ぜたりもしました。

 仕事中でも、階段を使う時は走って駆け上がったり、体の左右の筋肉のバランスを整えるために、左手で仕事をしたりもしました。

 「勝てるコツ」発見
 とにかく、起きている間は、常にトレーニングのことを考えていました。振り返れば、市役所時代が一番練習に取り組んだ時期でした。あえて、自分に厳しい練習を課すことで、「勝てるコツ」というものをこのころ見つけました。

 例えば、目の前の山の頂まで走って登ろうと思ったら、最後まで登り切る気持ちを捨てず、途中疲れて、四つんばいになったとしても、走る気持ちを忘れないことです。こうすることで、本番の時に「あの時の苦しさに比べたら、まだまだ頑張ることができる」という意識が芽生え、勝負に一番大事な自分自身との戦いに勝つことができるのです。

 そして、社会人2年目の6月に行われた東北陸上競技大会の女子8百メートルでは、大会と県の記録を更新する2分28秒1で優勝しました。

 冬を迎え、本番のクロスカントリーでは、全日本選手権と国体(宮城県鳴子)の予選を兼ねた県大会(10キロ)で、16人のゴボウ抜きで優勝しました。約3週間後の国体(6キロ)では、初制覇することができました。

 続く全日本選手権は、リレー(5キロ×3人)では優勝したものの、3連覇を狙った10キロは、天候悪化の影響で競技開始が2日延期されたこともあり、3位に甘んじてしまい、悔しい気持ちのままシーズンを終えました。

 けれども、いつものように自分に妥協せず、厳しく言い聞かせながら練習を続けました。そのかいもあって、翌年と続く1965年の全日本選手権で2連勝を飾ることができました。

 日本女子で初めて
 そして、その年の5月24日のことです。思いもよらぬ吉報が全日本スキー連盟から届きました。翌年(1966年)にノルウェーで開催される世界選手権(ノルディック=2月17日~27日・オスロ)の日本選手団12人(役員3、選手9)の一員に選ばれ、派遣されることが発表されたのです。

 しかも、ノルディックの世界選手権に日本の女子選手が出場することは初めてのことだったので、言葉に言い表せないくらいの喜びだったことを覚えています。

 地元も大変に喜んでくれましたし、湯沢北高校(現湯沢翔北高校)時代の恩師、入江種友先生も「派遣が決まってこんなうれしいことはない。若い女子選手にも刺激になるし、日本の女子スキー界にとって喜ばしいことである」と新聞に祝福のコメントを残してくれました。本当に感激しました。社会人5年目のことです。
(聞き書き・塚田裕文)
(2016年1月23日号掲載)

=写真=山形市で行われた東北陸上競技大会で

 
千葉弘子さん