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100 お猿のかごや ~童謡への大志はぐくみつつ~

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お猿のかごや

山上武夫作詞
海沼 実作曲

エッサ エッサ エッサホイサッサ
お猿のかごやだ ホイサッサ
日暮れの山道 細い 道
小田原提灯(ぢょうちん) ぶらさげて
ソレ ヤットコ ドッコイ ホイサッサ
ホーイ ホイホイ ホイサッサ

    ◇

 高校に入学して程なく、新入生歓迎行事の折だった。舞台の袖から猿の面や尾をつけた上級生の女子5、6人が登場してくる。

 軽快な音楽に合わせ、面白おかしく踊って会場を盛り上げた。体を前後に揺さぶり、かごを担いで弾むように回るしぐさが、今も目に焼き付いている。

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 あのころ、作詞者の名も作曲者の名も知らなかった。ユーモラスで明るい調子の歌が、戦前に誕生していたことなど思いも及ばない。信州松代の山々をイメージして作られた―。そう教えられたのは、近年になってである。

 作詞の山上武夫は1934(昭和9)年16歳の春、詩作を志し上京した。その2年前、東洋音楽学校(現東京音楽大学)に入学していたのが作曲の海沼実だ。

 共に長野市松代町の生まれ。既に童謡作曲家として活躍する同市県町出身の草川信宅で偶然出会った。音楽への夢を語り合い、やがて第一作の「お猿のかごや」に結実する。昭和13年のことだった。

 涙ぐましい秘話が隠されている。東京に出てきたものの山上は、姉の嫁ぎ先に居候するしかない。肩身の狭い思いにもだえつつ、あるとき庭に出て故郷を懐かしんだ。

 すると、尼巌山から奇妙山に連なる松代の山々が、夕映えの中に思い浮かぶ。そして2匹の猿が前と後ろ、かごを担いで山道を駆けていく姿が、幻となって現れた。

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 これだ! 部屋に取って返すや一気に書き進める。〈えっさ ほいさ えっさ ほいさ お猿のかごやだ ほいさっさ〉。これが海沼の作曲の段階で〈エッサ エッサ エッサホイサッサ〉と、担いで駆けるにふさわしい言い回しに変わった。

 草川信にあこがれ作曲の世界に踏み入った海沼にも、待望の出世作である。翌年にはレコード化もされた。ここから戦後にかけ、海沼・山上コンビの活躍する舞台が整った。

 「お猿のかごや」の4番にはこうある。

のぼって くだって ホイサッサ
ちらちらあかりは 見えるけど
向こうのお山は まだ遠い

 苦しみも喜びもある童謡の道を走る前途に、ようやく光明が差してきた。より高みを目指し、戦後の「見てござる」をはじめ、多くの傑作へ行き着く。

 そして「音羽ゆりかご会」の童謡歌手川田正子・孝子さん姉妹らの声に乗り、人々の心を明るくしていった。
(JASRAC出1600034―601)

 〔音羽ゆりかご会〕海沼実が主宰した児童合唱団。上京の翌年、音楽学校に学ぶ傍ら生活費稼ぎに音羽の寺で開いた当初は、小さな童謡教室だった。川田姉妹ら歌手を大勢育てている。

(2016年1月16日号掲載)

=写真1=夕日に映える松代の山並み
=写真2=「お猿のかごや」歌碑(法泉寺)
 
愛と感動の信濃路詩紀行