
西洋化による独立自尊などを唱え、慶応義塾の創始者でもある福沢諭吉(1834~1901年)は、一度だけ長野市を訪問したことがある。福沢晩年の1896(明治29)年11月のことだ。
家族や使用人を伴い、上野駅から信越線一番列車に乗り、軽井沢で休憩。長野市内で1泊し、高田(新潟県上越市)へ。長野で、福沢らしい卓抜な着眼を感じさせる演説を残している。
到着してすぐの演説は師範学校(現信大教育学部)で、200人余の生徒や教員に行っている。福沢が創刊し、「脱亜論」の社説を載せた日刊紙「時事新報」に、その内容が記されている。
「教育は天賦智愚(てんぷちぐ)をいかんともすべからず。いかに培養すればとて,瓜の蔓に茄子(うりつるなす)は生まれず。然(しか)らば(教育は)無用なりというに、また、決してしからず。深く潜める天授の資質を開発して人生の用をなさしむるは、すなわち、教育の効用である」
「例えば、なお園丁(えんちょう=植木職人)の双樹(若木)を培養するがごとし。自然のままに捨ておけば、用をなさざるも、心を尽くして養えば、趣ある庭木に、あるいは見事なる花を咲かしめるべし」
学者や英雄になるべし―という当時の価値観、風潮に一石を投じたのであろう。実利主義者でもあった福沢の冷徹な警句だった。戦前、この演説の主張を信州の教育関係者がひそかに語っていたと伝えられる。
福沢は、慶応義塾で学んだ卒業生を訪ね、郷里の中津(大分県)をはじめ、西日本への旅を繰り返し、その間の信越旅行だった。長野来訪が決定した時、信濃毎日新聞は歓迎の辞を掲載した。
「日本文明の先導者たる福沢諭吉君、我長野地方に漫遊せる。君を敬慕せる至情を表して、歓迎せるを可とす。君は実業経済を以て、立国の要素と為す人。我が地方人士の子弟を慶応義塾に託するもの少なからず。此の好機会に(謦)(けい)(咳)(がい)に接し、高説を聞くこと非常の利益なるべし」
財界人にも考えを示してほしいという趣旨である。実際、福沢は善光寺の東にあり、財界のサロン、迎賓館の役割があった「城山館」(旧蔵春閣=現・城山公民館別館)でも120人余を相手に演説。長野で隆盛だった養蚕、製糸業に切り込んでいる。
「養蚕・製糸で財をなした人はいないという。横浜・東京の資本家から高利の金を借りてしのいでいるらしいが、遺憾なことだ。自前の資本で独立を図れ。それには営業と生活費を厳重に分けねばならない」(筆者意訳)
当時、地方の経営者はおしなべてどんぶり勘定だった。
1901(明治34)年2月、福沢は68歳の時、脳出血の再発で波乱の生涯を閉じた。教育と経済の原則に、あらためて耳を傾けたい。
(2016年1月23日号掲載)
=写真=長野を訪れた際に宿泊したTHE FUJIYA GOHONJIN=藤屋=に残る福沢諭吉の書「忙中有閑」