
屋代と須坂を結んでいた旧長野電鉄屋代線。2012年3月末の廃止から4年近くがたった。屋代線の跡を路線バスと徒歩でたどった。
旧屋代線は1922(大正11)年、河東鉄道として屋代・須坂間が開業。62(昭和37)年から20年間、上野発の国鉄急行が屋代から乗り入れ、湯田中まで直通運転もした。廃線後、代替バスが屋代線跡に沿うように走る。市によると、1年間の乗客数(昨年9月末時点)は24万3千人余だ。
朝9時、屋代駅から乗車。乗客は7人。バスは駅前の宿場町から屋代高前を経て、雨宮の旧街道を進む。
屋代から15分ほど、土口でバスを降りると、近くに沢山川親水公園がある。屋代線はこの川沿いの土手を走っていた。今はレールとまくら木、架線が取り払われ、幅3メートルほどのバラスト敷きの空き地が延びている。
屋代線の線路跡は長電から沿線3市に無償譲渡され、市有地になっている。3市は自転車道や遊歩道などとして活用する構想だが、いずれも整備はこれから、あるいはまだ始まったばかりだ。
ここからは徒歩。線路跡は、岩野の集落を通り、妻女山の麓へ。上信越道の高架をくぐると、清野。周囲には名産の長芋やハウス野菜の農場が広がる。

松代で休憩。大正時代の駅舎が残る3駅の一つだ。バス待合所として使われているが、ことしはNHK大河ドラマ「真田丸」の放映に合わせ、観光案内の拠点にもなるという。
ここからまたバスに乗り、信濃川田駅跡へ。駅舎とロータリーが往時のまま残り、ホームに3編成の車両が留置されている。「トレインメモリアルパーク」が構想されているからだ。
こげ茶色のレトロなモハ1000形1両、マルーン色の2000系3両、3500系2両が、廃止前日に移動してきたままの姿でたたずむ。市によると、パークは地元と協議中で、開設のめどは立っていない。車両は傷みが目立ち、寂しさを覚えた。

若穂駅跡では、線路敷きの自転車道・遊歩道化の工事が始まっていた。秋以降に一部供用になるという。綿内駅跡には駅舎が残るが、駅前は閑散としていた。
須坂駅の手前には、地元企業と住民らによる協議会が整備した「河東線記念公園」。かつて米子鉱山からの硫黄を運んだ「米子線」の分岐点だった所で、レールと転てつ器などが残っている。
須坂まで歩きとおした。ほとんどの駅で駅舎とホームが撤去され、今では駅がどこにあったかさえ、知らなければ分からない。忘れ去られる前に、遊歩道やパークができることを願わずにいられない。
(竹内大介)
(2016年1月9日号掲載)
=写真上=バス待合所となった旧松代駅舎
=写真下=旧信濃川田駅に留置されている2000系(手前)などの車両