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101 望月の駒 ~馬が結んだ信濃と都の絆~

のぼり行けば目路いや遠くひらけたる御牧が原の雪の真深さ 土屋残星

あふ(おう)坂の関の清水にかげみえて いまや引くらむ望月の駒 紀 貫之

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 深く見下ろす雪景色の中を、千曲川が青白く流れ下る。対岸には樹木の合間に切り立ったがけが見え隠れし、さらに上はこんもりと台地が重なっている。
 小諸市懐古園内の北西隅、水の手展望台に立って見入った。すると、この地で島崎藤村が心血を注いだ第4詩集「落梅集」の1節がよみがえってくる。

あゝ北佐久の岡の裾
御牧が原の森の影
夢かけめぐる旅に寝て
安き一日もあらねばや

 その御牧ケ原の眺望だ。残念ながら木立にさえぎられ、全景が見通せない。懐古園を出て隣接する東御市滋野、ブドウ畑の目立つ傾斜地を上った。江戸時代の名力士、雷電の生家付近から振り返る。

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 東西に延びた千曲河岸を板とすると、その上にかまぼこそっくりの広大な台地が、逆光を浴びて横長に黒々と眺められた。冒頭の歌〈のぼり行けば目路いや遠くひらけたる...〉をまざまざ実感させる。

 これを詠んだ土屋残星は1889(明治22)年、北佐久郡西原村、現在の小諸市西原に生まれた。小諸義塾で藤村の教えを受けている。高峰高原の麓、千曲川の向こう視野いっぱいに、雪の御牧ケ原をとらえたのだった。

 時代をさかのぼれば、奈良、平安の昔から優れた馬として、都で評価が高かったのが「望月の駒」だ。それを育てた牧場こそ、信濃国最大の国営望月牧、つまり御牧ケ原である。今の佐久市望月・浅科から小諸市、東御市にまたがる。

 東と北を千曲川、西を鹿曲川の断崖が取り巻いている。いわば三方を逃げようのない天然の柵が囲む。しかも、緩やかな起伏の原野が広がり、馬の放し飼いには格好の地形だった。

 平安時代、望月牧からは毎年20頭が朝廷に納められている。はるばる連れて来られた馬を役人が都の入り口、逢坂(おうさか)山の関所で出迎える。「駒迎え」と称する大事な年中行事だった。

 平安朝を代表する歌人、紀貫之の詠んだ「拾遺和歌集」の1首が、華やかな王朝絵巻の一端を伝える。

 〈逢坂の関の清水に月の光が差し込むのと一緒に、美しい鹿毛(かげ)色の姿を水面に映して、今ごろは引き立てられてきたことだろう。あゝ望月の駒たちよ〉

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 佐久市望月、市役所支所の庭に望月の駒像が立っている=写真右。全体にずんぐりした体形ながらも、肩や腰などの骨格がしっかりしており、力強い。顔を真っすぐ前に向け、太く長い尾をなびかせて、草原を駆ける野性味にあふれる。

 500年以上にわたりこの地から都へと、よりすぐりの名馬が旅立った。誇っていい歴史の記念碑でもある。

 〔拾遺和歌集〕平安時代中ごろに編まれた勅撰(ちょくせん)和歌集。古今集、後撰集と並ぶ三代集の一つ。後世の歌に与えた影響は大きい。20巻1351首からなり、洗練された特色を帯びる。
(2016年2月6日号掲載)

=写真=千曲川の対岸に広がる御牧ケ原
 
愛と感動の信濃路詩紀行