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11 大東文化大学へ 挫折から復活目指す 札幌五輪出場を意識

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 1966年の世界選手権(ノルウェ―・オスロ)出場の経験は、私にとって衝撃的なものでした。「もっとレベルアップしたい」「もっと皆に伝えたい」。そんな思いで、胸の中がざわめくようになりました。

 ところが、神様のいたずらなのか、それとは裏腹に、帰国後は試合で勝てなくなりました。68年の仏グルノーブル五輪では日本の予選で負けてしまい、初めての五輪出場を逃してしまいました。

 24歳になっていました。「スキーをやめようか、初めからやり直すか」。大きく悩みました。挫折を味わいました。そんなときです。大東文化大学の斉藤貢教授に声を掛けていただきました。

議長の引き留めに涙
 早稲田大学などで活躍したアルペンの第一人者から「大学にスキー部を創設するので、コーチに来ないか」という一声に、気持ちが揺らぎました。

 当時、学校の先生になりたいという夢も膨らんでいましたし、世界選手権に出場しながらグルノーブル五輪出場を逃したことで、72年札幌五輪出場を強く意識するようになっていました。

 そして、生来の負けず嫌いの性格が大きく働き、「まだ選手を続けたいので、プレーイングコーチとしてお願いします」と伝えました。私の熱意が通じたのか、学生として選手兼任コーチで了承してくれました。

 湯沢北高校(現湯沢翔北高校)に入学した直後に、「五輪って何だろう」という軽い気持ちから始めたクロスカントリー。高校卒業後、当時の湯沢市長、菅圭一郎さんから「市役所に入れば、スキーを続けさせてあげる」というありがたいお誘いの一言もあり、6年間勤めさせていただいた市職員生活。20数年、スキーとともに暮らしてきた秋田の故郷を離れることになりました。

 市を辞めたい旨を伝えると、議長から「弘子ちゃんをお嫁さんに行かさなくてはいけないから、今お婿さんをさがしている。この年で東京に行って大学生になるなんて...」と反対されました。

 私を思っていただく気持ちと、クロスカントリーの高橋(旧姓)弘子として復活したいという思いがかけめぐり、悲しくて泣き出してしまいました。それを見ていた議長さんが「泣くほどいきたいのなら、仕方がない」と、最後は辞表を受け取ってくださいました。

切磋琢磨できる喜び
 湯沢北高3年生の時、地元の駅前で全日本選手権の優勝報告会が行われた時に、駅舎の柱の陰から見守っていた母も、東京行きについては黙っていました。卒業すれば教員免許を得ることができるという安心感があったからだと思います。

 そして、学生生活を送りながら競技を続けるという新たなスタートを切ることになりました。

 25歳で大東文化大経済学部に入学しました。大学では体育科で臨時職員として働きながら、勉強と競技を両立させる日々です。大学構内の合宿所で寮住まいをしていたこともあり、日頃の生活に不便を感じることはなく、集中する環境が整っていました。

 市役所時代は、メニュー構成も含めて一人で練習に取り組んでいたので、仲間とともに切磋琢磨(せっさたくま)できる喜びを感じていました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2016年2月13日号掲載)

写真=大東文化大学で選手兼任コーチに(右から3人目が私)
 
千葉弘子さん