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12 キャンパスライフ ~新たな気持ちで謳歌 再び選手としての灯~

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 大東文化大学に1967年に入学しました。同級生とは若干、年齢が離れている24歳の新入生です。

 初めて故郷の秋田を離れて、首都圏に出てきましたが、不安は全くありませんでした。18歳の新入生のつもりで、スキーはもちろん、勉強でも向上していきたいという新たな気持ちでいっぱいでした。

 学校の体育科で働きながらの学生生活をスタートしましたが、一つだけ気にしていたことがありました。仲間同士では問題なかったのですが、体育科の先生方に、「物静かな高橋(旧姓)」という印象を与えることでした。

冷やかされたなまり
 その理由は「なまり」です。というのも、体育科には外部から多くの電話がかかってきますが、生粋の秋田っ子で標準語を話せない私は、初対面のお客さまと、それも声だけで話すことに、ものすごく抵抗がありました。

 そのため、なかなか受話器を取ることができなかったのです。

 1週間も過ぎ、「このままではいけない」と、勇気を振り絞ってベルが鳴っている電話器に手を伸ばしました。何とか難局を乗り越えることができましたが、体育科の先生方からは「高橋さんってなまるのだね」と冷やかされるありさまでした。

 校舎は、入学する1年前に埼玉県東松山市に建てられたばかりだったので、新しくてきれいでした。やはり、自然と気持ちも高ぶりました。

 教員免許を取得する夢もあったので、しっかり単位を取ることは忘れませんでした。1、2年生次は一般教養科目といって、専門教科以外も学ばなくてはいけませんでしたが、キャンパスライフが楽しかったので、ちゃんと授業に出ていました。

 青春を謳歌(おうか)しながらも、本来の目的でもあるスキー部の選手兼コーチとして、授業後は、練習に取り組みました。クロスカントリーの技術を指導したり、仲間と切磋琢磨(せっさたくま)したりする中で、自分本来の滑りがよみがえるような気がしました。

 また、同期には湯沢北高校(現湯沢翔北高校)の後輩3人がいたことで、刺激になりました。構内の寮で寝食を共にしていましたので楽しかったですね。もちろん、私が寮長でした。

 オフシーズンは体力作りなどが主になります。それで、今でもスキー部のメンバーが集まれば、盛り上がる話題があります。

刺激的な競技環境
 当時の練習メニューの中で、種目、男女を問わず、一斉に長距離を走るトレーニングがありました。最初のころ、私は常に先頭を走っていました。そんな走りっぷりに、「弘子ちゃんは、アルペンの男子選手よりも速かったね」と、その時の様子を皆で笑いながら振り返ってくれるのです。

 既に世界選手権に出場した意地もあったと思いますが、5、6歳も年上の女性ですから周囲は驚いていたようです。さすがに、翌年には男子にはかなわなくなってしまいましたが。

 楽しい学生生活と、絶えず刺激しあえる競技環境は、6年間の社会人生活では得られないものでした。そして、私の中で再び、クロスカントリースキー選手としての灯がともり出しました。1年生のシーズンは、全日本学生選手権(インカレ)に出場し、5キロとリレーで優勝することができました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2016年2月20日号掲載)

=写真=体力作りで走る(右から3人目が私)

 
千葉弘子さん