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13 復活 ~「負けず嫌い」を発揮 全日本選手権で優勝~

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 大東文化大1年生の時、全日本学生スキー選手権(インカレ)で5キロとリレーを制し、2年生で連覇を果たしました。さらに、私を本格的に競技人生に歩ませるきっかけをつくってくれた全日本選手権が、本来の滑りの復活を後押ししてくれました。

 全日本選手権は、湯沢北高校(現湯沢翔北高校)の3年生の時に、五輪個人種目でもある10キロで初優勝を飾った大会です。その後の秋田県湯沢市役所時代にも栄冠を手にしたことはあったのですが、久しく結果を残せていませんでした。

 意気込んで迎えた大会直前に岐阜県流葉で行われた国体では、40度もの熱を出して惨敗してしまいました。

前日に発熱  
 しかし、そのシーズンから札幌五輪強化選手に選ばれて合宿に参加していたこともあり、選手権本番で結果を出す気持ちは強かったと思います。

 風邪も治り、「さあ、本番」と会場の北海道小樽に入りましたが、大会前日にぶり返しました。開会式を欠席。さらに、その日の夜も発熱のために2時間しか眠れず、体調も万全でないまま、レースに向かいました。

 暖冬の影響で、時折顔を見せる湿った雪に対応するワックスワークに各選手が苦しむ中、スタートしました。

 私のワックスは、その雪質に見事にはまりました。さらに、磨きをかけてきたストックワークと、強化合宿で得た「滑らせるスキー」で、ゴールを目指しました。それに、生来の負けず嫌いが出ました。「2時間しか眠れなかったからこそ、自分の力を出し切りたい」。そんな強い気持ちが重なり、全日本選手権10キロで4年ぶり5度目の優勝を果たすことができました。

 本当に歓喜の優勝でした。さらに、5キロも制し、2種目制覇を果たしました。思い出の全日本選手権で再び栄冠を手にすることで、翌年の1970年世界選手権(旧チェコスロバキア)、4年生の時にはノルウェー・ホルメンコーレン大会に出場するなど、上昇カーブを描いていきました。

 これも、大東文化大学に進学する道を選んだおかげだと思っています。充実した4年間のキャンパスライフは、練習の支えにもなり、とても感謝しています。

 母校で教育実習
 私は授業を1日も休まず、教室の一番前でノートをとっていたこともあり、先生方にも顔を覚えてもらえるようになりました。大会がテストと重なったときは、先生方からスキー部員に特別な計らいをしてもらい、別の日にテストを受けさせてもらったこともありました。

 単位取得も順調に進み、母校で教育実習をした際は、とても歓迎されました。「あの高橋(旧姓)が来たから」と、授業も本来の商業科目ではなく、臨時の体育教師にさせられました。さまざまな思い出が走馬灯のようによみがえってきます。

 一人で練習をしていた社会人時代に比べ、後輩から刺激をもらいながら、仲間とともに切磋琢磨(せっさたくま)できたことで、スキーの向上を図れたと、あらためて強く思います。

 大学を卒業する時は29歳というベテラン選手になっていました。けれども、1968年の仏グルノーブル五輪出場を逃した悔しさを、72年の札幌五輪で晴らそうという気持ちは一層固まっていました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2016年2月27日号掲載)


=写真=大学4年の時、札幌五輪強化指定選手合宿で(左から4人目が私)=北海道・中山峠で
 
千葉弘子さん