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14 長野へ ~秋田の反対で騒ぎに 「五輪目指す」を貫く~

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 大学時代まで、節目節目でいい人に出会ったり、面倒を見ていただいたりして、その都度、目標への道筋をつけることができました。大東文化大学卒業後もそうでした。

 翌年に1972年札幌冬季五輪を控え、長野県内の2企業が表彰台に上がる選手輩出へ、新たに動き出しました。三協精機製作所(現日本電産サンキョー、下諏訪町)がスケート部を、北野建設(長野市)がスキー部を創設したのです。

 そして、当時、全日本のコーチだった塩島澄博さんから「俺が北野建設スキー部の監督をやるから来ないか」と声を掛けられたのです。私も「五輪を目指してついていくだけだ」と、大東文化大学で指導者にならないかという誘いをお断りして、長野行きを決めました。

 県議や連盟会長も
 ところが、故郷の秋田県から取り消しを求める猛烈な反対の声が上がりました。長野といえば、秋田にとって冬季競技大会のライバル県でもあるので、覚悟はしていましたが、県会議員をはじめ、多くの方が地元から訪れるなど、大騒ぎになってしまいました。さらには、秋田県スキー連盟の会長さんまでが夏の合宿先まで来て、「秋田に帰ってくると思っていたのに...。どうなのだ」と、私を説得しようとされました。

 私は「塩島監督と札幌五輪を目指す」という強い気持ちが固まっていました。「長野でスキーをやらせてください」と、必死に頭を下げてお願いしました。最後は、会長さんも「そういう考えであるなら仕方がない」と、納得していただきました。

 ただ、母からも猛反対されました。泣きながら「長野に行かなくてはスキーができないのかい」と言われた時は切なかったですね。

 申しわけない気持ちがあり、少しでも理解してもらおうと、それから2度、長野に呼んで、善光寺さんや街並みを見せ、「こういう所で仕事をしているんだよ」と安心してもらいました。

 一波乱ありながらも、北野建設でスキーを続けることができました。目指すは札幌五輪です。

 総務での仕事を終えた15時から19時まで、練習をこなすのが日課でした。春から秋のオフシーズンは、走力をつけるために、飯縄山を登山したり、一の鳥居周辺を走ったりしました。

 北欧の合宿所で練習
 ありがたかったのは、北野建設が「国内だけではだめ。海外にも目を向けないといけない」と、スキー部のためにフィンランドに合宿所を用意してくれたことです。海外に合宿所を設けたのは、日本では初めてだったそうです。冬の到来が早い北欧で、みっちり滑ることができたのは本当にうれしかったですね。

 日本でも有数のクロスカントリー選手だった塩島監督は、技術がしっかりした方でしたので、走法が馬力型の私は、監督の後ろを滑りながら走法テクニックを学びました。

 フィンランド、ノルウェー、スウェーデンの北欧3カ国で武者修行をしながら帰国し、12月の札幌五輪代表選手選考記録会を迎えました。結果は、5キロ、10キロとも優勝を飾り、五輪代表切符をほぼ手中にしました。ところが、5キロのレースでとんでもないハプニングが待っていました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2016年3月5日号掲載)

=写真=札幌五輪前の代表選手合宿で(左端が私)
 
千葉弘子さん