
三輪田町にある西洋館「信州会館」が消える。取り壊され、跡地に大型マンションが建設される計画だ。掲げられた「予定建築物概要」によると、地上15階、住戸数74戸などと示されている。
信州会館は善光寺の表参道や繁華街の権堂町に近く、こんもりとした林に囲まれたしゃれた建物。立派な石柱門から玄関まで、前庭をたどっていく。生け垣がめぐらされ、通りがかりの人たちの目を引いた。
もともと、この西洋館は民間住宅だった。終戦後の1946(昭和21)年早々、連合国軍総司令部(GHQ)直属の対敵情報部隊本部として接収された。労働組合運動の活発化などに伴い、占領下の対日工作にかかわったとされる。
「米軍将校が盛んに出入りし、ジープを運転してきて待機するGI(兵隊)さんからチョコレートやガムをもらうのが楽しみだった。覚えた英語はギブミー、ギブミーばかり」
西洋館近くの老舗商店主の思い出だ。接収解除後は所有者一家が宴会場「信州会館」として営業した。
棟上げ時の記念撮影と思われる写真が残っている。日付は1926(大正15)年4月31日。「小川組花見会 小林久七氏邸宅前」と裏書きにある。同年秋に完成したと伝えられる。
前列は施主一家を中心に、背後に丸髷(まるまげ)が目立つ女性たちは権堂の芸者だろう。現場に勢ぞろいした職人たちは撮影後、仕事を早々に切り上げ、施主招待の花見の宴に移動したという。写っている桜の若木は満開だ。
西洋館のオーナー、小林久七とは何者なのか。調べてみると、大正から昭和にかけての地元経済史を彩った一人だった。
小林は1903(明治36)年創立の「長野実業銀行」を設立。同行は28(昭和3)年、9行合併により、預金貸出金が県内1位の「信濃銀行」となった。長野商業会議所(現商工会議所)の6代目会頭を務めるなど、「長野財界の雄」の一人だった。
今の善光寺下辺りに本宅があった家に生まれた小林は、事業を起こすのに意欲的だった。時代は、伸長する国力を背景に政府は対外進出を図り、ロシアと権益を争っていたころだ。
しかし、時代は暗転した。華やかな西洋館棟上げからほどなく、米ウォール街の株式大暴落から世界恐慌へ。信州の基幹だった養蚕・製糸業は大打撃を受け、信濃銀行は1930(昭和5)年、支払い猶予に追い込まれて行き詰まった。小林一家は西洋館から姿を消したという。
昭和不況は、大陸への進出・侵略、日中戦争、満蒙開拓の道へと進み、そして終戦。西洋館は戦前・戦後を通じた舞台の一つに数えてもいいだろう。
(2016年2月27日号掲載)
=写真=1926年の棟上げの際に撮った写真。前列中央で子どもを抱いた背広姿が小林久七