春風に待つ間程なき白帆哉(しらほかな)
井上井月

天竜川の急な流れに乗り、荷を載せた船が激しく揺れながら下っていく。あるいは帆を高々と掲げ、下流から吹き寄せる風を受けて上ってくる。
かつて天竜川は、山国信州を太平洋の海辺とつなぐ重要な交通路だった。いま川べりに立っても、往時をしのぶ面影はまず見当たらない。井上井月の一句は想像力を刺激し、川が街道でもあった時代をよみがえらせる。
定住の家を持たず放浪、漂泊に徹した俳人井月のことだ。土手に寝そべったりしながら、行き来する船を眺めていたのだろう。

春風で白帆をいっぱいに膨らませ、待つ間もないほど勢いよく、どんどん近づいてくる。今では見ることのかなわない光景だけれども、的確な描写によってまざまざ目に浮かべることができる。
天竜川は諏訪湖を源として静岡県浜松市の遠州灘(なだ)まで、延長213キロに及ぶ。古くから木材を流し、京都、大坂や江戸の大都市で建築材に当てる水運が盛んだった。江戸時代には船による運送が加わり、ますます役割が大きくなる。
1872(明治5)年、河川の改修が進み、岡谷から河口の掛塚まで通して船による運行が実現した。20年後には定期客船が往来するほどに発展している。
ところで井月は不思議な人だ。1822(文政5)年、越後の長岡生まれとされるけれども、いまだ確かな根拠を欠く。生涯の前半、どこでどうしていたのか、30代になってふらり伊那谷に現れ、87(明治20)年66歳で没するまで約30年とどまった。

つまり幕末から明治の初め、天竜川の舟運が盛んになった時期と重なる。上伊那中心に一宿一飯の恩義にあずかりながら、転々と渡り歩く生活を続けた。その俗人のまねできない気ままな生き方が、今日もなお人をあこがれさせ魅了する。
花の名所、高遠城址(じょうし)公園からの帰り、伊那市の天竜川右岸の堤を散歩していると、橋のたもとに小さなお宮があり、傍らに「史蹟天竜川舟着場」と刻んだ碑が立っている=写真下。「入舟」の地名が印象深い。
さらに「天竜川通船の由来」と題した解説板がある。〈漂泊の俳人井月は天竜川上流の通船を 春風に待つ間程なき白帆哉 と歌い残し...〉。冒頭でこう一句を紹介している。
そして江戸初期、京都の豪商角倉了以(すみのくらりょうい)が河川改修を試みたこと、上流では文政(1818―30年)のころ、通船が就航したことなどが記されている。文政といえば、井月が誕生した時でもあった。
目を転じると、足元の天竜川は白波を立てて流れが速く激しい。井月が慕った松尾芭蕉は〈日々旅にして旅をすみか〉とする歳月を送った。川の流れに井月も己の生涯を託していたのかもしれない。
〔角倉了以〕戦国末期から江戸初期の豪商・土木家(1554~1614年)。朱印船による貿易を展開する一方、徳川家康の勧めもあって富士川、天竜川などを改修し、水路を開く事業に力を注いだ。
(2016年3月19日号掲載)
=写真=伊那市入舟の舟着場跡