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15 札幌五輪出場 ~世界のレベルを実感 高み目指す気持ちに~

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 1971年12月、札幌冬季五輪・代表選手選考記録会のクロスカントリー5キロでのことです。順調に滑ってきた4キロ地点でした。下り坂で思い切り滑り降りたら、何と右足のスキー板が真っ二つに折れてしまったのです。

 大会ルールでは、片足だけなら板の交換ができましたので、近くにいたコーチから板を借り、再度滑り出しました。ワックスもしっかり塗っていない板に、40秒近いタイムロス...。さらに悪いことに、11月の北海道大雪山での強化合宿中に左手薬指を骨折して、ギプスが外れた直後でもありました。うまくストックも握れない状況でのタイム差に、優勝を半分あきらめていました。

至上命題を達成
 それでも、札幌五輪への自分自身の思い、私の長野行きを許してくれた故郷秋田の皆さんに応えるために、がむしゃらに滑りました。

 その結果、別の選手と同タイムながら優勝することができました。これで勢いを得て、続く10キロも制し、全日本スキー連盟の全国理事会で、札幌五輪日本代表の一人として正式に発表されました。

 やっとつかんだ五輪切符でした。うれしくて「札幌は私のスキーの総決算です」と、記者の質問に答えたことを覚えています。

 その時の年齢は29歳。決して若手とはいえませんが、仏グルノーブル五輪で2冠、リレーで銀メダルを獲得した30歳のグスタフソン選手(スウェーデン)をもじって、「日本のグスタフソン」とも呼ばれていましたし、札幌プレ五輪の10キロを制したカヨスマ選手(フィンランド)は33歳のママさん選手でした。

 世界の壁は決して低くはなかったのですが、練習はやれるだけのことをやってきました。上位入賞を狙って五輪に臨む強い気持ちは持っていました。

 初めての五輪出場は10キロでした。自分で出した38分台の日本記録を上回る36分台をマークすることが至上命題でした。

 気持ちの高ぶりを抑えながらスタートしました。前半はスキーが雪に乗らず苦戦しましたが、後半は得意のピッチ走法で追い上げました。兄や姉、親類、さらに故郷の秋田県湯沢市から駆け付けていただいた大応援団のおかげで、日本女子初の36分台を出すことができました。

予想以上の速さ
 ただ、世界は予想以上に速くて、優勝したクラコフ選手(旧ソ連)は34分17秒。35分台が7人、36分台に15人もいる厳しいレースで、結果は25位でした。5キロとリレーにも出場しました。

 初めての五輪出場で感じたのは、クロスカントリーが生活の一部で、幼少のころから滑り慣れていて、スキー操作が体に染み付いた北欧などの選手にはかなわないということでした。

 札幌五輪を「スキーの総決算」と考えていました。けれども、外国選手と競り合えば競り合うほど、実力が付くということを実感したので、引退という言葉は頭をよぎりませんでした。

 どんどん国際大会に出場して、世界レベルの選手と互角に渡り合いながら結果を出せるようになりたいと、さらなる高みを目指したくなりました。生来の負けず嫌いにとって、年齢は言い訳にしかすぎませんでした。
(聞き書き・塚田裕文)
(2016年3月12日号掲載)

=写真=札幌五輪でサインに応じる私

 
千葉弘子さん