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16 五輪後 ~思い出が後押しに 全日本で最多優勝~

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 1972年札幌五輪の余韻が残っていた10日後には、鳥取国体(大山町)に出場していました。ここから、普段の競技生活に戻ったわけですが、札幌五輪に関して忘れてはならない出来事がありましたので、少しだけ振り返らせてください。

 五輪本番の1年前、プレ五輪大会でのことです。リレー競技を終えた私に近づかれて、「素晴らしかったですね。何人抜いたのですか」と、激励のお言葉を掛けてくださったのが、当時の皇太子妃美智子さまでした。皇太子さまが連れ添われていて、思わず直立不動になってしまいました。雑誌に、声を掛けていただいた写真がカラーで掲載されていたので、切り抜いて今でも大切に保管してあります。

故郷に「高橋弘子杯」
 また、私の故郷、秋田県湯沢市では、五輪出場を記念して小中学生を対象にしたクロスカントリースキー大会を、「高橋(旧姓)弘子杯」と銘打ち、1977年に創設してくださいました。故郷を半分捨てたように飛び出た私を、宝物のように扱っていただいたことは、いくら感謝してもしきれません。今でも、地元の子どもたちが参加して大会を盛り上げてくれているので、本当にうれしい限りです。

 さまざまな思い出を残してくれた札幌五輪だったからこそ、競技続行の後押しをしてくれたのだと思います。

 ですから、五輪直後の国体でも自然と足が向きました。秋田県代表として選手宣誓をさせてもらって、リレーで優勝した五輪前年の秋田(田沢湖)国体に続き、72年鳥取国体には長野県代表として出場。6キロでは、4年ぶり3回目の優勝を果たしました。リレーでも優勝し、皇后杯(女子総合得点)で、長野県に初優勝をもたらすことができました。

 29歳の「ベテランスキーヤー」と言われましたが、滑りは盤石だったと思います。続く3月の全日本選手権では3年ぶり2度目となる5キロ、10キロの2冠制覇でした。また、10キロは2連勝7度目の優勝。全日本選手権で通算10個のタイトルを獲得し、男女を通じて最多の記録となりました。

 とにかく、体力的にはそれ以上伸びるのは難しかったので、できるだけ無駄をなくす走法を心がけたのが良かったと思います。これも、北欧遠征でノルウェーのママさん選手を目の当たりにしてきたからかもしれません。現に、プレ大会も含めた札幌五輪でもまざまざと見せつけられていましたから。

前を見て進む
 ほろ苦かった五輪デビュー戦も過去の貴重な思い出。前を見て進むことしか考えていませんでした。

 当時、マスコミの人たちからの「選手生活はいつまでか」という質問に、「コーチに聞いてください」と答えていました。塩島コーチが「負けるまでやらせます」と続けたことから、76年の五輪も出場するかもしれないという声が周囲から上がっていたことを記憶しています。

 一方で、ベテラン選手として競技を続ける中で、しつこいくらい新聞紙上で書かれたのが結婚に関することでした。「そろそろ、お婿さんを見つけたら」や、時には「日本のカヨスマ(フィンランドのママさん選手)としてまだまだやれますね」と、遠回しに聞かれたこともありました。
(聞き書き・塚田裕文)
(2016年3月19日号掲載)

=写真=秋田国体で選手宣誓をする私
 
千葉弘子さん