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17 結婚 ~周囲の働き掛けで 夫も入社し長野に~

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 1972年札幌五輪を終えて間もなく、30歳の誕生日を迎えた直後の6月24日に、地元の秋田市内で結婚式を挙げることになりました。急な話でしたが、当の本人以上に周囲が一生懸命、働き掛けてくれたのです。

 やはり、私の年齢のことを考えて心配してくださったのでしょう。以前から親交のあった、といっても、そんなに深いお付き合いをしていたわけでもなかったのですが、同郷でスキー複合の第一人者だった千葉浩志さんをお相手に紹介してくださいました。

 千葉さんと最初にお会いしたのは高校時代です。秋田県花岡工業高校の選手だった千葉さんと、いろいろな大会で時々顔を合わせていました。

以前からの知り合い
 そして、私が湯沢市役所に勤めた時だったと思います。当時、強豪だった同和鉱業スキー部の複合選手でもあった千葉さんが、同チームへの勧誘役として手紙をくださいました。その時は、もちろんお断りしましたが、これがご縁でした。

 私が大東文化大学に入学すると、偶然にも千葉さんは大学近くの埼玉県川口市の会社に就職したのです。そんなこともあり、お互いに顔も知っていたので、大会近くになると、何度も応援の電話をいただきました。大変ありがたかったのですが、私は競技に夢中だったので、お付き合いするまでには至りませんでした。

 私が北野建設に入社すると、当時日本代表コーチでもあった塩島澄博さんが、私のことを千葉さんが応援していたことも知っていたので、一気に結婚話が進みました。

 というのは、川口に住んでいた千葉さんと私がもし一緒になったら、長野を離れてしまって大変だということになり、「千葉を北野建設に入社させろ」という当時の北野建設社長の「鶴の一声」で、千葉さんも北野建設で活動することになりました。

 長野、秋田の県スキー連盟、秋田県知事まで動き出しての一大イベントになりました。千葉さんは4月に入社し、2カ月後には結婚式を挙げることになったのです。当時の小畑勇二郎秋田県知事ご夫妻に仲人を務めていただきました。

気持ちに余裕
 この時点で結婚を決めて良かったと思います。選手として続行する気持ちに変わりがなかったのは、やはり生来の負けず嫌いがあったのでしょう。ですから、理解のある素晴らしい伴侶を得たことで、気持ちに余裕ができたというか、スキーの滑りにも安定感が増してきた感じがしました。

 そして、半年後の73年2月に全日本選手権を迎えました。前夜に39度の発熱。5キロ当日の朝は声も出ませんでした。札幌五輪組の一人として負けるわけにはいかないという強い気持ちもあり、強行出場しました。

 3.5キロ地点でトップと10秒あった差を、ゴール手前100メートルで追い抜き、優勝しました。翌日の10キロは、卵酒を飲みながら滑り、2位に2分以上の差をつけて勝ち、2冠を達成しました。

 10キロを制した時は、報道陣の質問に思わず「このメダルを主人に贈りたい。子どもが生まれてもやれると思う。周囲の温かい支援と本人の努力で続けられる」と答えたのを覚えています。
(2016年3月26日号掲載)
 
千葉弘子さん