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18 現役引退 ~長野県に貢献したい 国体に復帰して連勝~

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 1973年2月の全日本選手権で2年連続3度目の2冠(5キロ、10キロ)を達成し、同選手権の獲得タイトル数を12に伸ばしました。1週間後の新潟国体でも、6キロで2連勝、通算4度目の優勝を果たし、リレーでも長野県に連覇をもたらすことができました。

 高校入学後に興味本位で始めたクロスカントリー。競技選手としてのスタートは決して早くはありませんでしたが、全日本選手権、国体、世界選手権そして札幌五輪に日本代表として出場することができました。周囲の皆さんの支えがあってからこそだと、あらためて感謝しています。

 そして、そのシーズンが終わる3月になりました。「ついに」と申しますか、東京で現役引退発表の記者会見をすることを決意しました。

年齢別がスタート
 当時の新聞に、「札幌五輪の前に、手を骨折し出場できない不安にかられたことが、一番の思い出として残っています。私がいつまでも頑張っていては、後輩の成長にマイナスになるのではないかと考え、やめる決意をしました」と発表したコメントが載りました。

 長野にいる時は、家で主人の食事の用意は必ずしました。主人から「家庭に入ってほしい」とは言われませんでしたが、合宿や大会で家を空けることが多く、主人を放っておくことが精神的に苦痛だったことが、引退に踏み切った要因の一つでした。

 引退後は、北野建設スキー部コーチとしての活動が始まり、翌年には長女が生まれました。第1回川崎壮年マラソン大会(神奈川県)に招待選手として走ったこともありました。75年の北海道・富良野国体では長野県選手団の役員として参加しました。ところが、その国体から年齢別が始まったのに、年齢が高い方の2部の参加選手はたった2人でした。

 そんなことが、多少なりとも影響していました。年齢別が設けられたことで、自分が出場して上位に入れば、長野県に貢献できるという思いから、翌76年の富山国体から、国体に限り、復帰しました。久しぶりのレースでしたが、5キロで優勝し、アンカーで出場したリレーは3位に入賞しました。

 続く77年の青森国体では、秋田国体以来10年ぶり2度目の旗手を務めました。競技では、5キロで2連勝しました。

生まれ故郷の声援
 何と、そのゴール直後に、高松宮殿下が貴賓席から下りてこられ、「相変わらず強いね。おめでとう」と、直接声を掛けていただきました。大変感激しました。そのおかげもあり、リレーでは2位入賞に貢献することができました。

 生まれ故郷の秋田が近いこともあり、スタンドからも大きな声援を受けました。特にうれしかったのが、「ゆきが優勝を待っているぞ」と長女の名前を呼んで後押ししてくれたことです。ジーンときたのを覚えています。

 そして、いよいよ78年の長野国体を迎えました。クロスカントリーは野沢温泉村で行われました。「第二の故郷」でもある長野へのご奉公のつもりで一時復帰した国体でしたが、選手宣誓という大役を任せられました。秋田国体に続く2度目の宣誓で、大変光栄なことでした。
(聞き書き・塚田裕文)
(2016年4月2日号掲載)

=写真=青森国体で優勝し祝福を受ける(信濃毎日新聞社提供)

 
千葉弘子さん