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185 神津藤平 ~鉄路と観光に刻まれた功績~

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 「ばか者、ブレーキが遅い。停車はもっと緩やかに」「がたがたさせるな。お客さまが目を覚ます」。怒声の連発に、乗客が何ごとかと目をむく。

 長野電鉄の創業者・神津藤平(こうづとうへい)(1871~1960年)は、年を取ってからも、電車運転席の真後ろに仁王立ちになり、始発から終点まで怒鳴り続けた。お付きの幹部が用意した椅子を勧めても、立ちっぱなしだったという。

 乗り物は「客が気付かないほど、静かに滑るように発車、停車をする」という快適さが最上と考えた。電車がガッタン、ギーなどと変な雑音を出すと、ステッキを振り回して激高する。神津の雷は運転士や車掌ばかりか、沿線の駅長、駅員、保線員にも落ちた。

 山梨県韮崎市出身で、阪急電鉄や宝塚歌劇団などを創設した小林一三(いちぞう)(1873~1957年)は、慶応義塾の同窓で、神津のライバルだ。小林も電車に乗り込んでサービス向上にまい進。安全はもちろん、便利・快適は至上の哲学だった。

 神津は1871(明治4)年、志賀村(現佐久市)の生まれ。次男だったが、長兄が早世し、仕方なく帰郷し、佐久地方の発電や牛馬改良、鉄道、銀行、倉庫事業を手掛けた。「電気需要を高めるには電車が一番」と北信に進出。1922(大正11)年開業の屋代―須坂間を皮切りに、鉄道網を開いていった。

 一方で、神津は発電の適所探しをしていた山歩きで、志賀高原(現山ノ内町)に目を付けた。

 しかし、地権者が手を組む高原へ参入するのは容易でなく、沓野山一帯の借地に成功したのは29(昭和4)年だった。文人、知識人や皇族を案内。スキーに精通したノルウェーのヘルセット中尉らを招き「素晴らしい雪質、東洋のサンモリッツ(スイス)」の言葉を贈られた。

 郷里の名を付けた「志賀高原」が全国ブランドになるのは、GHQ(連合国軍総司令部)の丸池スキー場などの接収解除を経た戦後のことだ。猪谷六合雄(くにお)さん、千春さん父子の知遇も得て、志賀高原を「スキーの聖地」と宣伝した。千春さんは、56年コルティナダンペッツォ(イタリア)五輪のスキー回転銀メダリストでもある。

 鉄道敷設は近代化の基盤をつくる一つに、スキーリゾートは観光や地域振興の柱になった。北信地方の歴史や、人々の暮らしや産業に、神津の功績が生きていることを忘れてはなるまい。
(2016年3月26日号掲載)

=写真=「神津藤平の横顔」(1961年刊行)から=長野電鉄提供

 
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