
戦前「製糸王」と呼ばれ、王子製紙の社長、会長を務めた藤原銀次郎(1869~1960年)は、安茂里村平柴(現長野市)の出身である。信州には珍しい政財界人の範とされた。
中途就職した三井銀行を拠点に人脈を広げ、富岡製糸場の支配人や三井物産の中国上海支店長を歴任。送り込まれた王子製紙を再建し、国内製紙業界を主導した。貴族院議員になり、米内光政内閣の商工相、小磯国昭内閣の軍需相などに就いた。
今日、藤原が再評価されるのは、人材育成に力点をおいた社会貢献を信条に、科学技術の振興を理念として、スウェーデンから森林科学を導入し、植林を国民の教育文化にまで高めるなどしたからである。
最初は医者を目指していたが、慶応義塾を卒業後、縁あって松江(島根県)に赴任。「松江日報」の記者や新聞経営者になったが、挫折した。青年時代の体験を生かし、幅広い知見で、企業経営に知恵を絞った。
王子製紙の社長を退いた後の1939年、私財を投じて藤原工業大学を創設。44年にはこれを慶応義塾大学に寄付した。同大理工学部の前身である。共立女子大も支援している。59年に創設した「藤原科学財団」は、現在も王子ホールディングスが支え、科学者の顕彰を続け、国際セミナーも開いている。
同時代に信州の名を高めた人物に、諏訪市出身で岩波書店創業者の岩波茂雄(1881~1946年)が挙げられる。岩波と藤原の間に奇縁があることを、近年知った。2人はともに、静岡県熱海に別荘を建てていた。

岩波の「惜櫟(せきれき)荘」は、時代小説家の佐伯泰英さんが購入して解体修復した。建築家の吉田五十八(いそや)の木造設計秘話を掘り起こした佐伯さんの「惜櫟荘だより」(岩波書店刊)が出版されている。
藤原の別荘「倶忘軒(ぐぼうけん)」はJR駅から徒歩10分余にあり、見事な和風庭園と贅を尽くした茶室が健在だ=写真下。
今は三井物産の保養所「滞春亭」となっている。熱海特有の急傾斜地をならし、瀟洒(しょうしゃ)な茶室家屋が池の水面に浮かぶ。眼下の海に初島を見下ろす景観が素晴らしい。茶道は松江藩主の松平不昧公(ふまいこう)の縁だろう。
藤原は戦後間もなく、ポケットマネーで故郷の平柴に上水道施設を贈った。地元の人たちは盛大な記念式典を行い、1957年に藤原を「村の道祖神」にした。経営の天才は、好々爺になり、悪疫や鬼を防ぐ神様となった。
(2016年4月23日号掲載)
=写真=倶忘軒(現・滞春亭)に飾られている藤原銀次郎の写真