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19 コーチ・監督 ~活躍続けた部員たち 荻原兄弟もスカウト~

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 1978年の長野国体を最後に、国体からも現役を引退しました。あらためて競技生活を振り返ると、スキーを通じて多くのことを学ばせてもらいました。

 秋田県湯沢北高校(現湯沢翔北高校)の入江種友監督、大東文化大の斉藤貢監督、日本代表と北野建設の塩島澄博監督をはじめコーチ、そして応援してくださった皆さんに考え方や生き方など、人間としての勉強もさせてもらいました。

 また、節目では、必ず後押ししてくれる方が現れました。数多くの戦績や、日本代表としてさまざまな経験をできたのも、その方々のおかげであり、感謝しています。

五輪、世界選手権へ
 選手を辞めた後は、北野建設総務部で働きながら、コーチ業に専念しました。女子選手で印象に残っているのは、中島和子さんと富井弘子さんです。

 中島選手は85、86年の全日本選手権5キロ、10キロを連覇し、86年から始まった冬季アジア大会(北海道)の両種目も制しました。富井選手も87年の全日本選手権5キロ、10キロで優勝。2人は85年の世界選手権(オーストリア)に出場しました。

 男子では佐々木一成選手です。86年の全日本選手権で距離3冠を達成し、88年のカナダ・カルガリー五輪に出場。その後も、仏アルベールビル五輪出場など、好成績を出し続けてくれました。

 約10年間、コーチを務めた後、87年に総務部付課長補佐として北野建設スキー部監督に就きました。93年まで務め、その間に荻原健司、次晴兄弟をスカウトしました。

 双子の2人ですが、当時の彼らの性格は正反対でした。兄の健司君は、いつもユニホームをきれいにたたむなど、きちょうめんでした。弟の次晴君は、フィンランド合宿の食事後の姿を思い出します。つまようじをくわえながら、「皆、行くぞ」と部員に号令を掛けました。

 そんな2人に厳しくしてくれたのが、コーチの小野学さんでした。健司君は、アルベールビル、ノルウェー・リレハンメル五輪の複合団体を連覇、W杯では世界初の個人総合3連覇を達成。次晴君は、W杯2戦で兄に次ぐ準優勝を飾るなど、活躍してくれました。

小野学さんが死去
 小野さんは92年から2000年まで日本代表監督も務めるなど、北野建設スキー部も含め、日本の選手育成に欠かせない人でした。

 ところが、10年のカナダ・バンクーバー五輪が終わって間もない夏、呼吸器不全で亡くなられてしまいました。59歳という若さでの突然の死は、日本スキー界に衝撃が走りました。

 私がスカウトしたフリースタイルの上村愛子さんも育てていただいたので、本当にショックでした。

 私は、94年からスキー部副部長になりました。社内では総務部付課長として、この年にできた北野文芸座の支配人も務めることになりました。歌舞伎座を思わせるような演芸場は、地域社会に対する会社の取り組みの一環でしたから、「スポーツだけでなく、文化の発展のためにも頑張らなくては」と、気持ちを引き締め直したのを覚えています。

 さらに驚いたことには、その夏、県から教育委員任命の打診を受けたのです。
(聞き書き・塚田裕文)
(2016年4月9日号掲載)

=写真=北野文芸座の支配人に(左から2人目が私)
 
千葉弘子さん