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20 長野五輪招致 ~実現へ向けて高揚感 ロビー活動にも参加~

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 北野文芸座の支配人になった1994年に、「学力に劣る子どもたちの体力上昇とスポーツ文化の発展のために」と、県教育委員就任への打診を受けました。私で大丈夫なのか不安でしたが、会社も応援してくれるということでしたので、引き受けることを決め、10月に就任しました。

 長野県のために働くことは、大変名誉で光栄なことでした。私に声を掛けて下さったのは、98年長野冬季五輪の開催が決まっていたこともその理由の一つかなと思っています。

 私が北野建設スキー部のコーチとして10年近く過ぎたころ、長野市に冬季五輪を呼ぼうという気運が、少しずつ高まり始めていました。86年7月には長野五輪招致委員会が設立され、メンバーの一人に私も選ばれたのです。

ライバル市でPR
 72年の札幌冬季五輪に選手として出場し、各国の選手が準備万端で臨んでくる五輪独特の雰囲気を、今度は地元長野で味わえるかもしれないという高揚感がありました。長野五輪実現へ精いっぱいお手伝いしたいと思いました。

 とはいえ、道のりは簡単ではありません。ほかに旭川(北海道)、盛岡、山形の3市が名乗りを挙げていました。国内候補都市に選んでもらうため、日本オリンピック委員会(JOC)や競技団体、県内外に向けた招致活動に取り組みました。

 長野市の旗を手にして、ウインタースポーツが盛んで、アルプス山脈がもたらす恵まれた競技環境などを必死に訴え続けました。長野市最大のライバルとして盛岡が有力ということも言われていたので、あえて盛岡へ、長野のPRに出掛けたのを覚えています。

 88年6月、東京の岸記念体育会館で開かれたJOC総会で、国内候補都市が長野に決定しました。岸記念体育会館には、当時の吉村午良県知事、塚田佐長野市長などがいらっしゃって、歓喜に包まれました。

 国内候補都市は長野になりましたが、やっと五輪へのスタートラインに立ったところでした。

 そして91年6月、英バーミンガムでの最終決戦、国際オリンピック委員会(IOC)総会です。着物を着こんだ私は、日本のブースでIOC委員に日本酒を振る舞うなど、積極的にロビー活動に加わりました。

肩の荷が下りる
 国際スキー連盟(FIS)やIOCのパーティーにも参加しました。時には、FISの10日間にも及ぶ会議で連日、着物姿でおもてなしをしました。

 立候補していたのは、ソルトレークシティー(米国)、エステルスンド(スウェーデン)、ハカ(スペイン)、アオスタ(イタリア)と長野の5都市でした。過半数を獲得するまで最下位を落としていく方法で5回の投票が繰り返されて、最後は長野とソルトレークシティーが残りました。

 皆さんもご存じのとおり、当時のサマランチIOC会長が「ザ・シティー・オブ・ナガノ」と読み上げ、長野五輪開催が決定したのです。札幌以来26年ぶりの国内開催が決まり、皆が泣いて熱狂しました。招致委員会が発足してから、五輪招致に向けて皆さんが奔走されていましたから、やっと肩の荷が下りたという感じでした。
(聞き書き・塚田裕文)
(2016年4月16日号掲載)

=写真=IOC総会で活動した招致委メンバーら(英バーミンガムで、左から4人目が私)
 
千葉弘子さん